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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.9] ■■■
[466] 僧兵抗争
僧兵はテキストでは必修語彙だが、アンチョコ(教師用なので神田の三省堂だけで売られていた。)には、文献に使われていない用語と書かれていた。しかし、誰がどのような経緯で名付けたかは未記載。
成程、"歴史"とはそういう学問か、と妙に感心した覚えがある。
多分、院政期の京では、奈良法師@興福寺、山法師@延暦寺、寺法師@園城寺と呼ばれていたのだろう。餌取法師同様のニュアンスで使われていた可能性が高い。

地領争いが頻発している以上、寺も雑色に武装させて防衛するしか手は無い訳で、小生は、武家政治へと道を開いた一大要因と思ったが、受験の傾向と対策上は余計な見方。この時代の暗記必須用語は「往生要集」。
それがなんとも面白かったことを思い出す。
僧兵は念仏を唱えていたのだろうか。あるいは、神輿を担いで都で強訴する時だけ、ワッショイワッショイ○○様との掛け声か。(延暦寺の場合は日吉社ご神体だったらしいが。)
歴史は、山を貼った限定的暗記に徹し、時間を出来る限り割かないことを旨としていたので、そんなことを調べようと思ったことは一度もないが。

「今昔物語集」なら、その辺りを教えてくれるかと期待したが、残念ながら全くわからず。
ただ、武力は必要という当たり前の見方はそこそこ示されている。お経の霊験で武力に優ることもあるが、仏法に全く無関係に武力で奏功ということもアリマスという調子。そこだけみれば、仏教的世界観とは無縁な本とされておかしくない訳で、まさに自由精神発露といったところ。

と言っても、表立って、僧兵の武力行使を語ることは、流石に躊躇したと見える。
  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗類 冥界往還 悪報:転生現報 他)
  [巻二十#_8] 良源僧正成霊来観音院伏余慶僧正語📖天狗 (欠文)

なかなかに意味深なタイトル。
良源僧正示寂後、その霊が観音院=大雲寺@岩倉の大伽藍建立中の余慶/智弁/観音院僧正[919-991年]僧正のところに飛んで行ったというのだから。

もっとも、20余慶⇒19尋禅⇒18良源と天台座主が登場する譚もあり、燃える余慶と、大行列で姿も見えぬ良源の違いが印象的。
  [巻二十#_2] 震旦天狗智羅永寿渡此朝語📖天狗

両者の対立は981年に決定的なものになったようだ。
余慶僧正の年譜を見るとすぐにわかる。
  971年 余慶の奏:新羅明神に正四位上
  979年 園城寺/三井寺長吏
  981年 法性寺座主
        
[925年尊意開山 藤原忠通と子 九条兼実が出家…円仁流]
       延暦寺/比叡山門徒嗷訴…3ヶ月で辞す。
  989年 20世天台座主…3ヶ月で辞す。


山門(円仁派) v.s. 寺門(円珍派)が見えるように系譜を再掲しておこう。📖源信物語 [5:横川の僧]
最澄[766-822年]
義真[781-833年]…初世天台座主
◆円珍5世(↓増命)❺❼─○運昭─○千観[918-984年]
┼┼├─○惟首[826-893年]6世
┼┼├─○猷憲[827-894年]7世
┼┼└─○明仙●余慶/観音院僧正[919-991年]20世
├] [─○泰範[778年-n.a.]⇒空海の弟子
円澄[772-837年]…2世天台座主
└○広智…東国巡化(多宝塔建立)

円仁[794-864年]…854年3世天台座主
┌┘
├○安慧[794-868年]4世天台座主
├○増命/静観僧正[左大史桑内安峰の子][843-927年]…10世天台座主 ↑三井寺長吏
├○玄昭[846-917年]
│├─○尊意[866-940年]…延命院建立13世
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"慈恵大僧正"良源/元三大師[912-985年]…966年18世天台座主

さてそこで、大雲寺観音院の方だが、寺歴はこんな具合。
  971年 真覚[藤原敦忠4男]開山…日野文範開基(園城寺別院)
  980年 円融天皇勅願寺 密教道場整備
  981年 余慶一門僧と入寺
  985年 観音院建立 文覚
[966-1046年]初代別当職
        新羅明神社勧請


尚、真覚の往生譚は収録されているものの、題に比叡山僧とあるだけで、師は勿論伏字であり、大雲寺観音院について示唆するような一言も無い。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#31]比叡山入道真覚往生語📖比叡山僧往生行儀

要するに、藤原氏とツーカーとなった余慶は京東山に一大拠点創出を図ったということか。法性寺に一大勢力を終結させたが、それが良源の怒りをかい、岩倉地区に逃避せざるをえなかったということのようだ。これで山門勢力の座主が続くことになり、京の根拠地が確立したことになる。
小生は、「今昔物語集」の取り上げ方からみて、この対立の根底には円珍守護神で園城寺土着の新羅明神 v.s. 円仁守護神の渡来赤山明神@赤山禅院[888年円仁建立祈願 4世安慧創建]があるのではないかと思う。
両者の大陸からの帰還は大事だったようだから。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#11] 慈覚大師亙唐伝顕密法帰来語📖円仁入唐物語 📖伝教大師の薬師仏像
  [巻十一#12] 智証大師亙唐伝顕密法帰来語📖琉球國

ただ、そんなひと昔前の話が、どうしてこの頃に再燃したかと言えば、それは僧兵が担ぐ神輿に鍵がある。神を乗せて練り歩くというのは、"お祭り"以外のなにものでもなかろう。京都で言うなら、それは祇園御霊会@八坂神社のコンセプト。疫病(天然痘だろう。)が蔓延したために行われた865年の神泉苑での御霊会に端を発すると言われ、守護神牛頭天王を祀る。(鉾📖+牛痘神+祇園精舎)さらに、これに、武塔神や蘇民将来という出自不詳とされる信仰が被さっている。「山鉾巡行」と「神輿渡御」が混在させられているのだ。誰が見たところで、名前からして本朝の神ではないのは自明であり、本朝では発生していないが、朝鮮半島では蔓延した疾病(インフルエンザだろう。)ということで、半島出自の渡来神に頼ることになったと考えるのが自然であろう。
この疫病退散の祭りを誰がどう取り仕切るかが、宗教勢力にとっては極めて重要だった筈で、これを巡る争いが起きておかしくない。
歴史上では、それは947年の祇園感神院@八坂の支配権を巡る武力騒動とされるが、前哨戦はとっくに始まっていた筈だ。
それが、新羅明神 v.s. 赤山明神と見る。

祇園祭がどれだけ重要だったのかは、天台座主として朝廷の法要のために法性寺に来ていた時に、山階寺系の祇園の別当に激怒し、放逐させた話が物語る通り。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#24]祇薗成比叡山末寺語📖完璧な明尊護衛

一方、天台の宗派内の騒動だが、良源示寂後に朝廷の支持を基盤とする園城寺勢力が支配を強めようとしたため発生したようだ。さらに、朝廷が支持をあからさまにしたことで、火に油を注ぐことになってしまったと見てよさそう。貴族のかかえる武力に頼って、天皇のご威光を得たところで、すでに延暦寺内ではそれが通用しなくなってしまったのだろう。そこまで来てしまえば、独立するしか道はなかろう。

結局のところ、階層横断的になった祇園御陵会こそが、これからの仏教教導の鍵を握ると見ていた良源路線が本朝仏教を形作っていくことになる。
それをいみじくも象徴するのが、厄除け元三(命日)大師護符(角大師)の登場だろう。(994年73才時)寺や私宅仏殿に安置される祖師像ではなく、町民・農民・兵士の階層でも得られるお札を信仰対象にする方向へと大胆な展開が図られたのである。

「今昔物語集」では何故か取り上げていないが、角大師とは、鬼の姿を意味しており、京の北東に位置する比叡山の、その北東の横川の、そのまた北東の果ての地に埋葬させ、自分の力で鬼門を封じ、衆生を護る所存と宣言したようなもの。これで、延暦寺横川は不動の地位を獲得したとはいえまいか。

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