→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.31] ■■■ [488] 紀貫之の歌 「古今集」仮名序と「土佐日記」の作者であり、日本文学の1ページを開いたと覚えさせられる、大御所。 やまとうたは、 ひとのこゝろを たねとして、 よろづの ことのはとぞ なれりける。 その後、"貫之は下手な歌よみにて 古今集はくだらぬ集に有之候"と知ることになる。 貫之の評価という点では、「今昔物語集」編纂者も同じ気分かも。「今昔物語集」では、先ずは業平。貫之は、1首のみの、ベリーショートだからだ。 詞足らずと評されている業平は気にならぬが、貫之の歌詠み官僚的目線が気に喰わぬということかも。 ●[巻二十四#43]土佐守紀貫之子死読和歌語 都へと 思ふ心の わびしきは 帰らぬ人の あればなりけり 「土佐日記」の一節では、高知大津から浦戸へと向かう船中で紀貫之[872-945年]が詠んだとされているが、「今昔物語集」では任期が終わり帰京することになり、7〜8才になった娘を亡くしたばかりだったので、柱に書き付けたとなっている。 その方が気分がでるだろう、ということで。 個人的には、どうせなら、ここは前譚の虚貝に続けて海文化で繋げて欲しかったところ。 土佐よりまかりのぼりける舟の内にて見侍りけるに、山の端ならで、月の浪の中より出づるやうに見えければ、昔、安倍の仲麿が、唐にて「ふりさけみれば」といへることを思ひやりて 都にて 山の端に見し 月なれど 海より出でて 海にこそ入れ もっとも、誰でもが知るその仲麻呂[701-770年]の和歌は、引き続く14番目の譚に収載されている。 ●[巻二十四#44]安陪仲麿於唐読和歌語和歌語 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも [古今#406] しかし、貫之の"ご立派"な"ご主張"には、この手の歌はそぐわない。 親の子に対する愛情が悲しみに転じた時の"こころ"を詠むことこそが和歌の真髄ということらしいから。そこに、永遠性ありということなのだろう。 命を賭して金を稼ぐしかない船の舵取りの心根を読み取る力の有無だけの問題ではなさそうだ。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |