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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.13] ■■■
[501] 絡繰り人形
どこ辺りまで本当なのか苦慮する話がある。

「酉陽雑俎」ではハンググライダー飛行だし、「今昔物語集」では子供の大きさの外置き"からくり人形"。
  📖科学技術と技能@「酉陽雑俎」の面白さ

考え続けたところで、まともな結論が出るとも思えないので、あってもおかしくないと見なすことにした。
  【本朝世俗部】巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術譚)
  [巻二十四#_2]高陽親王造人形立田中語

話そのものは、わかりやすい。

高陽親王/賀陽親王[794-871年 桓武天皇第十皇子]は優れた工芸家だった。

親王がお建てになった、京極寺は@三条[774年開成法皇子開基 782年2代高陽親王]、寺前の川原にある寺領田圃に賀茂川の水を引き入れていたが、国中が旱魃となり、この地も渇水で苗が枯れる寸前となった。
親王は、四尺ほどの童子像を造り、田圃の中にお立てに。

左右の手で器を捧げ持っていて、器に水を入れると、その容器から自分の顔に水を流し掛ける仕掛けが施されている、からくり人形だった。
人々はこれを知ると、水を汲んで来て、器に注いで、その動きを見て大いに面白がり、大騒ぎ。
すぐに、その話が京洛中に広まり、大勢の見物人が集まり、代わる代わるに水を注いで皆で楽しむように。
そんなことで、水が田圃に溜まるようになり、一面潤いが戻ってくるように。
すると、親王はすかさず、人形を隠してしまい、再び日照りが続いて田圃が涸れそうになると、人形を出して田圃の中に立てて、人を集めるという手を使った。
そのお蔭で、京極寺前の田圃は水が涸れずに済んだという。

高陽親王を工芸家と呼ぶところを見ると、人形の造作担当は渡来人ではなさそう。そうなると、本朝できそうな人は、人形を操る芸人 傀儡師/久々豆しかいないので、先ず間違いなくこの人達を使っていたことになろう。

傀儡の記録が増えるのは浄瑠璃が生まれた頃からだが、出自はわからぬものの、この人達の歴史は古そう。「枕草子」もそれとなく触れている位だから。
この当時は、各地の恵比寿/戎社を渡り歩いていた流浪の民だったと思われる。ただ、テント生活者ともされており、狩猟者との記述もある位で、その生活実態ははっきりしていない。
京では京極寺内に長期滞在し、芸能で食べていたと見るのが妥当なところか。
非定住者だけに、律令体制から外れた存在で、国家観など全く持ち合わせない遊び放題の歌舞伎者だろうが、高貴な層から招かれて褒美も頂戴しているから、事実上放任状態だったようだ。 [大江匡房:「傀儡子」]
高陽親王は、格別お気に入りということだろう。

彼らにとっては、絡繰り人形造りは、観客をビックリさせて話題にさせる、重要な集客手段だからその工芸技術は高かったのは間違いない。
親王は震旦渡来の各種工芸品のなかにある仕掛けモノに興味があったので、動く人形を作らせたということだと思う。

普通は、それを屋敷で来客に見せて悦に入るものだが、一般大衆へ公開するという革新的な発想を持っていたところを見ると、長安の大都会の状況をよく知る文化人だったと見てよかろう。

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