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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.14] ■■■
[520] 知識結
民間の力で建てられた寺院を知識寺/智識寺と呼ぶそうである。

そのなかでも、行基建立の河内太平寺廃寺@柏原が有名らしい。
孝謙天皇756年難波宮行幸で旧大和川近くの河内六寺[智識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂]参拝と史書「続日本紀」]にあるそうで、日程から見て智識寺南行宮に4泊した模様。聖武天皇も参加していたようだが、(闘病中。同年崩御。)参拝できなかったようだ。状況から見て、東大寺大仏開眼のお礼参詣。
尚、智識寺は日本三大仏(廬舎那仏)を安置していた大寺とされる。

本朝仏法部を聖徳太子と行基から始まる編纂方針を採用しているというに、この辺りの話を取り上げていないので、どうも腑に落ちない感じがしていたが、よくよく見ると、"知識"は拾遺譚で拾っていた。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#_2]鳥羽郷聖人等造大橋供養語📖架橋(後半欠文)
  普く諸の人を催て、
  
知識と云ふ事を以て、
  其の橋を渡してけり。


血縁や地縁を越えて共同して造寺・造仏・慈善事業が行われ、課題を実現させることで、結縁を図った訳である。各地に知識結が結成され、先ず知識寺が創建されたようだ。
特に橋の場合は、異界への渡し観念があり、彼岸の地への架け橋という気分が出るから人々の熱意は相当なものがあったと思われる。
行基の社会事業はそのようなものだった訳である。

従って、東大寺の盧舎那仏は、そうした動きに押されて始まったとも言えよう。
740年の聖武天皇難波宮行幸での、智識寺大仏拝観が発端らしいから。

尚、智識寺=太平寺廃寺としているのは、太平寺が推古天皇勅願聖徳太子建立との伝があるからと思われる。大和から外の太子の拠点は、河内太平寺+摂津四天王寺+山城広隆寺・六角堂ということになる。太子創建寺は多数あったが、一族滅亡後多くは消滅し、それを行基が再興していったという流れが想定されていそう。

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