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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.26] ■■■
[57] 架橋
🌉架橋を筆頭とする古代交通路土木工事の祖と言えば、行基になるのでは。小生の時代の日本史教育では、というだけの話だが。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_2]行基菩薩学仏導人語
この譚では、《難波橋》を架けたと記載されている。
 摂津国の難波の江の橋を造り、
 江を掘て船津を造り給ふ

もちろん、橋だけではないが。
 行基菩薩は、
 畿内の国に四十九所の寺を□□□□給ひ、
 悪き所をば道を造り、
 深き河には橋を亘し給ひけり。


行基はすでにとりあげたが、[→本邦三仏聖]橋の話を加えておきたい。畿内の要所に架橋を実現させているからだ。大仏云々ではなく、そこらをしっかりと記載しているのは流石。
全体観を踏まえた橋架けが行われているのだから、当たり前と言えば当たり前ではあるが。
 橋六所
  泉大橋 山崎橋 …山城國
  高瀬大橋 長柄 中河 堀江 …摂津國
    [「行基年譜」天平十三年]

《泉大橋》は恭仁京近くの旧名泉河の木津川に741年に架けられたとのこと。

《山崎橋》については、すでに取り上げた。[→観音ノ寺参詣]
  【本朝仏法部】巻十六本朝 付仏法(観世音菩薩霊験譚)
  [巻十六#40]十一面観音変老翁立山崎橋柱語 (欠文)
行基が架橋したのだが、858年に破損し、新たに架橋ということ。寺は行基の時は山崎院と呼ばれていたと思うが、宝積院となったのである。

《難波橋》との名称では、場所の同定が難しいが、難波京近くの堀江を指しているのかも。この時代、川は河口近くで分流していたらしく、堀江川・長柄川・三園川があり、3箇所に架橋したのでは。そう考えると、全てを一括した名称と考えるのが自然か。

実は、「今昔物語集」の"架橋"の取り上げ方はなかなか鋭いと感心したのだが、それは行基の架橋話ではなく、道登の《宇治橋》の方。話としては、髑髏の報恩譚なので見逃されがちだが。
  【本朝仏法部】巻巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#31]髑髏報高麗僧道登恩語
高麗渡来僧の道登は元興寺に住んでいた。
功徳の為に、
 宇治に初めての橋を造営しようとの心根。
道登は北山科の恵満の家に通っていたが、
 その帰り道の奈良坂山で
 人に踏躪されている髑髏を見つけ
 従者の童に木の上に取り置かせた。
その後のこと。
 大晦日の夕暮時、
 道登大徳の童子に会いたいと訪問者。
 童子が門外で会うと、話始める。・・・
  汝の師の恩を蒙ったので、安息を得た。
  その恩を今夜報いたい。
童子は里のとある家に連れて行かれ、
  沢山の食べ物でもてなされ、
  そのまま泊まることに。
 深夜、その家に人の気配がすると、
  兄が来たようなので、去ると伝えられる。
  どういうことか尋ねると、
   兄は商いで得たカネを独り占めしようと
   奈良坂山で我を殺し、
   それを盗賊のせいにした。
   お蔭で、髑髏は踏躪され続けていた、と。
 男は消えてしまった。
そこに入って来たのは、霊の母と件の兄。
 大晦日に霊魂を祀るためである。
 童子はすべてを語ったので
 母は涙し、童子にお礼を言い、食べ物で布施。
師の大徳は、童子からそれを聞き、悲しんだ。


・・・冒頭の一行で架橋の話かと思ってしまうが、中身はそれとは無縁なのである。
ところが話はここで終わらず、宇治橋を架けるのに天人が助力したことが述べられる。さらに、それがもとで、大化という年号が始まったとまで記載されている。
実は、ココに意味がある訳だ。

この道登だが、山尻/山背の出身で高麗学生後入唐し、吉蔵門下に。帰国後は元興寺/飛鳥寺に入ったと伝わる。宇治橋の架設は646年/大化二年のこと。時代を考えてみる必要があろう。大仏開元[752年]の100年以上前のことなのだから。
橋架けの祖は行基ではなく、こちら。
ちなみに、それがわかったのは、江戸期に宇治橋断碑が出土し@橋寺放生院碑文[「帝王編年記」]が本物であることがわかったのである。・・・
浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

「今昔物語集」のこの譚の肝は、髑髏を供養することではなく、この漢文にあるように、「結因此橋 成果彼岸」なのである。

小生が架橋に拘るのは、この土木工事一切が僧による勧進で行われているから。
つまり、国家の根幹を造るような超大型土木工事プロジェクトにもかかわらず、立案に当たっては支配者層が絡まず、ファイナンスも民間ベースで進めるのが基本とされていたようなのだ。

労働徴用許可と租税免除がなければ到底成り立たないから、勝手に行える訳ではないが、すべてが僧の才覚で進められていたのは間違いないだろう。
驚くべき社会制度である。

換言すれば、現実の河川での架橋は、"社会的"に、此岸から彼岸への想念上の架け橋と同一視されていたと言うことになろう。

「今昔物語集」がいかにも、当代随一のインテリが集まる仏教サロンから生まれた作品臭く思えるのも、実はこの譚の記載が大きい。信仰が救ったのではなく、知識が活用されたことで素晴らしい成果が生まれたと書いてあるからだ。・・・
 人皆河より渡る事を歎て、
 往還の人を助けむが為に、
 普く諸の人を催て、
 知識と云ふ事を以て、
 其の橋を渡してけり。


どのような雰囲気で架橋工事プロジェクトが進んだかも、《桂川 鳥羽大橋》の例て、しっかりと書いてある。半ば以降は欠文だし、最終巻「雑=補遺」に回された譚ではあるものの、どうしても捨て去ることができなかった事跡であることがわかる。・・・
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#_2] 鳥羽郷聖人等造大橋供養語 (後半欠文)
桂川に架かっていた橋が壊れたので、聖人が喜捨を集め修復。
喜捨が余ったので、盛大な法会挙行。様々な人々が大勢集まり、熱気溢れるものだったのだろう。
どの橋に当たるのかはなんとも言い難いところはあるものの、羅城門から南進し洛南の鳥羽に至る平安京の中軸をなす交通路上であるのは間違いなかろう。
(平安京の河川の水量は不安的だし、恒常的に使える船津の整備は大事なので、津に繋がる陸路整備は極めて重要だった筈。これなしには、平安京繁栄は無理だったと思う。)

要するに、架橋に力を注ぐということは、自分の身の回りで死んだ人々への供養として欠かせない供養行為とみなされていたということ。
従って、仏像造りに使われていた用材も、橋用になったりもする。
それはあんまりの行為、との主張が以下の譚。なんということもない話ではあるが。・・・
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#11]修行僧広達以橋木造仏像語
僧 広達は上総武射出身。俗姓は下毛野公。
金峰山に入り、樹下でもっぱら仏道修行。
桃花の郷にある秋河の橋は梨材で造られていた。
 その橋を行くと悲鳴が聞こえたが、
 人がいないことから材木が発していることがわかった。
 その原因は、造佛用材を橋財に転用したこと。
そこで、広達は、その木から阿弥陀・弥勒・観音像をつくり、
 越部の村の岡堂に安置し供養した。

(尚、広達は、772年に、宮中内道場出仕僧10名に選ばれている。…"秀南・広達・延秀・延恵・首勇・清浄・法義・尊敬・永興・光信"・・・"十禅師" [「続日本紀」光仁天皇宝亀三年三月丁亥])

ただ、彼岸への橋との考えは、もともとは仏教のコンセプトではなさそう。
橋に鬼が登場するからだ。古代から綿々と続く"異界との境界(端)"こそが橋のもともとの意味と考えるべきだろう。
そこには死霊がやってきたり、鬼がいたりするのである。
《安義橋》での出来事とは、それを語ったもの。尚、この橋の場所だが、近江蒲生の安吉郷阿伎里と考えられており、近江八幡竜王線安吉橋@日野川の可能性が高い。
  【本朝世俗部】巻二十七本朝 付霊鬼(変化/怪異譚)
  [巻二十七#13]近江国安義橋鬼人語
近江守従者の若者達が集まって酒食遊宴。
 雑談が昂じて、
 「安義橋を渡る者がいない。」との話になった。
 なかに、お調子者がおり、
 「鬼が出るといっても、
  館で一番の馬さえあれば渡ってみせる。」と言い出し、
 そのうち、ののしり合いまでに進み、
 守がでてきてしまい、男は行く羽目に。
安義橋近くは、人気もなくわびしい状況。
 近くに行くと、橋の中途で独りたでたずむ人が見えた。
 よく見ると、魅惑的な女性だったが、
 これは鬼と考え、馬で疾走して渡り始めた。
 女の呼びかけは無視したが、
  追いかけられているようなので、
  観音菩薩に念じて馬を駆るだけ。
 後を振り返って見ると、
  身長9尺もの身体は緑青色にして、
  蓬のような頭髪で、
  朱色の顔に琥珀の如き一つ目。
 しかし、ひたすら祈ったので
  どうやら人里に到達できた。
そんなことで舘に着くと
 皆から介抱され、
 守から馬を拝領することができた。
男は得意顔。
 ただ、陰陽師に
  祟りを防ぐため物忌せよと言われ
  閉門していた。
ところが、突然、
 陸奥守従者の弟が戻ってきて
  母が行先で亡くなったので話をしたいと。
  そのため、家に入れざるをえなくなった。
 そのうち、兄弟はとっくみあい。
  男は妻にすぐに太刀をと言うが、
  妻は渡さず。
  そうこうするうち、弟は兄を噛み殺してしまった。
 妻が見ると、
  そやつの姿は、
  説明してくれた鬼と同じだったのである。

[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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