■■■ 古事記を読んで 2013.11.19 ■■■

天地開闢辺りの自然分類考

聖書で言えば、創世記にあたる部分は、古事記では実に哲学的というか、ヒトの原初的体験を彷彿させるものになっている。海のクラゲのように漂う世界が存在しているというところから始まるからだ。
そこに、「神々」が自発的に現れるという筋書きである。
特筆モノは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の登場。あたかも葦が伸びていくようなという描き方の名称であり、具体的なイメージが浮かんでくる訳だ。
海を臨む低湿地帯に住む民族の創生神話であることが一目瞭然。この風景こそが原点と高らかに宣言しているようなもの。

乾燥地帯の民とはいささか異なる訳だが、一般に言われているような、創造主が存在しないという天の違いより、この風景の違いのインパクトの方が大きいのではなかろうか。

それに、最初の段階で生まれる神々が観念的なのも特徴と言えまいか。男女の区別があろうがなかろうが、個性や感情、地域的特性が全く感じられ無いからだ。
どうやら祖先神と見なせるのは、イザナギ+イザナミ夫婦神だけ。それより前の神々は、読む側に親近感は湧くないのが普通では。しかし、それは現代人だからで、古代がそうだった筈がない。神の名称を聞くだけでイメージが湧いたに違いなかろう。ここら辺りを踏まえて考える必要がありそう。
もっとも、古事記編纂時にそんな感覚がどこまで残っていたかははなはだ疑問だが、語り部の記憶に頼りながら、できる限り神の性格がわかるように記載したに違いあるまい。その労苦に応え、我々もセンスを磨く必要があるのでは。

ということで、どう考えるべきか、自然分類的に眺めてみることにした。素養を持ちあわせていないのでピント外れどころか初歩的な間違いもあろうが、それを恐れずに。

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なんといっても、驚きは、純粋な思惟上の神としか思えない天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)から始まっていること。普通に言われている日本人の体質では考えにくいが、どうしても、そうするしかなかったということなのだろう。古事記は国家の正史ではないから、大陸の真似をする必要があるとも思えないし。
そうなると、以下のように眺めていたことを、そのまま記載しただけということか。・・・
 ・ヒトが見ることができない「天」を取り仕切る神
 ・その「天」に存在する神々。
 ・見えるし触れることも出来る「現実世界」の神々。
「場」としては、基本は「天」と「地」だろうが、両者ともに、曖昧な概念である。これを正確に表現すると、どうしても観念的にならざるを得ないのだろう。
「天」とは、ヒトが直接見ることができない観念的な概念ということにもなる。例えば、「空」、「山」・「川」、「岩」、「海」、「草」・「木」・「虫」、「根」は、現実環境に存在するモノ。それぞれ個別に神がかかわってくる訳で、それが「天」とつながると、「雨」・「風」・「雷」・「地震」・「雷」のような形で現れるといったところか。、観念の世界の神々が、現実環境に神を送ってくるという感覚かも。

そんな風に考えると、天之御中主神の次に控える神が、観念上の「神々」の原型を示していると見ることもできよう。
 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
 神産巣日神(かみむすひのかみ)

ここから先が、ヒトの歴史ということになるのではないか。長い名称の神が先頭にくるが、これがいわば人類史の曙をどう見ているかを示していると言えそう。葦が伸びるような風景を、原体験的イメージとして持っている一族ということになる。
 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)

ただ、あくまでも所属は現実環境ではなく、「天」である。歴史となれば、「天」から離れる必要があり、それを示すのが「天」と現実環境としての「国」が並立することを示すことになる神である。
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
 豊雲野神(とよくもののかみ)
ただ、「天」の神を峻別する必要があるのは道理であり、天之常立神までは、別天津神(ことあまつかみ)で、「国」に係わるが、あくまでも「天」の神であることを、喚起している訳である。
コレ、イメージ的にもよくわかる表現とはいえまいか。・・・「天」の神々と、現実世界の神々が交流する訳だが、それぞれ、その状況を形作るための神が存在するということ。両者は繋がってはいるが、全く異なる世界であり、間にはふくよかな雲が流れているという訳である。両者間の境はよくわからないし、曖昧だが、それも又神の仕業なのだということになる。神が取り仕切っているから、ヒトは境の線引きなどできない訳である。

ここからは、夫婦か、兄妹、あるいは姉弟か、なんともわからぬが、男女の組み合わせの神々が5組続く。
 宇比地邇神(うひぢにのかみ)
   +須比智邇神(すひぢにのかみ)
角杙神(つのぐひのかみ)
   +活杙神(いくぐひのかみ)
 意富斗能地神(おほとのじのかみ)
   +大斗乃弁神(おほとのべのかみ)
 於母陀流神(おもだるのかみ)
   +阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
   +伊邪那美神(いざなみのかみ)
解説的なものを眺めると、徐々に国らしくなって5代目につながるような話になっているが、そうでない気がしてきた。時間軸では順番なのは間違いないだろうが、並列的な事象を記載したのと違うか。
そんな風に思うのは、この後の系図で、突然、高御産巣日神の子が登場してくるからだ。系譜としての時間軸は全く考慮されていないのである。従って、記述は常に系譜とは限らない訳。
  思金神(おもひかね)

登場シーンは、イザナギ-イザナミの後代でのこと。岩戸隠れの解決策の提案者であるだけでなく、瓊々杵尊の強力な随伴者として葦原中国への展開を活躍しているのだ。「天」の知恵袋といったところ。
このことは、知恵の源泉は、民族的なものではなく、ヒトの本質に由来すると考えていたということかも。
これだけなら、逸話的な挿入という感じだが、明らかに系譜を示す婚姻関係で高御産巣日神の娘が登場するのだ。
  萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)
なんと、天照大御神の子と結婚することになるのだ。このことは、高御産巣日神は観念的なものではなく、氏族的な概念と考えるしかあるまい。
そうだとすると、5組の神々も系譜的な流れを示す訳ではなく、高御産巣日神から別れで発展した氏族と考えた方が自然だろう。イザナギ-イザナミは日本列島で国を作ったがが、他の4組は他の地域で国を作ったということになる。

実際、それの方がおさまりがよいのでは。このように見ればどうか。多少無理はあるが、イザナギ-イザナミへと段階的に発展する神々という説明よりはましなのではなかろうか。
宇比地邇神+須比智邇神・・・砂地のような地域で国作り民族
角杙神+活杙神・・・泥のような地域での国作り民族
意富斗能地神+大斗乃弁神・・・台地での国作り民族
於母陀流神+阿夜訶志古泥神・・・海岸沿いでの国作り民族
伊邪那岐神+伊邪那美神・・・波と凪の地域での国作り民族
このようなことを考えざるを得ないのは、順番通りに国土が完成していうという解説は説得性を欠くからだ。
どう見ても、イザナギ・イザナミはほとんどゼロから国土作りをしている。混沌とし液体に天沼矛入れて、かき混ぜ、そこから滴り落ちたものが最初の大地になるのだ。いかにも、塩作りを連想させる海人の国土作りではないか。ここまでに至る4ステップを示していると見なすのは、いくらなんでも無理では。
それよりは、5方向へと進出していった歴史を示していると見た方が自然な感じがする。日本列島はその一つにすぎないことになる。

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