■■■ 古事記を読んで 2013.12.2 ■■■

「欠史八代」論は説得力不足

古事記 中つ巻は、初代天皇の即位前の話から始まる。
ところが、それに継ぐ第2代から第9代までの天皇は、系譜だけで、事績が全く記載されていない。
そのため、「欠史八代」と呼ばれる。そして後世になって創作されたとの解説だらけ。

大いなる疑問。・・・
第10代の天皇の推定在位時期より古いと見なせる「大王」クラスの墳丘墓は"大和"地区には一つも無いのか? 初代天皇が九州から辿ってきたと記載されている地区から運ばれたと見なされるモノが、"大和"地区で出土していないのか? 等々、気になることは多いが、どうなっているのかさっぱりわからぬ。

シュリーマンの教訓から言えば、実在を示す出土品が見つかる可能性もある訳だし。それに、創作との仮説の論理はいかにも弱い。この部分だけを創作と見なす根拠を示せないなら、古事記全体を創作とみなすしかなかろう。

そもそも、創作したいなら、いかにも存在していそうな記載にするのでは。わざわざ、ありえそうにない享年にする必然性はなかろう。もっとも、詳しい事跡が記載されている初代と第10代以降もトンデモ享年。
しかも、正史の記述と合わない記載とくる。なんだかネ状態であり、整合性など、全く意に介せずの姿勢で編纂されたと見るべきだろう。
  初 代 - 137才
  第2代 - 45才、第3代 - 49才、第4代 - 45才
  第5代 - 93才、第6代 - 123才、第7代 - 106才
  第8代 - 57才、第9代 - 63才
  第10代 - 168才、第11代 - 153才
暦で設定された元旦で年をとる仕組みだと、暦法によって、年齢が全く異なるから、トンデモ享年が伝承されてしまったということかネ。

それはそれとして、欠史観には、さっぱり合点がいかぬ。
と言うことで、その辺りを書き記しておこう。

   ─・─・─・─・─・─

思うに、創作と見るにしても、何を「中つ巻」で知らしめたいのかは自明では。・・・大和という地区に樹立された「天皇」の政権が、血統的に、脈々と繋がっており、それこそが正統性そのものということ。
そういう意味では、天皇の系譜が示されていれば、事績など無くても十分と考えることもできよう。
ただ、「天皇」の威光が日本列島に広がっていったことを示す必要はあろう。逆に、支配を広げていくことに繋がらないお話は意味が薄かろう。従って、第2代から第9代までで、さしたる逸話が見当たらなければ事績無しはありえる。つまらぬ記載はかえって逆効果だからだ。
その視点とは異なるが、「下つ巻」では実在天皇であるにもかかわらず、事績記載に力を入れていない。わざわざ記載する意味が薄いからである。これと同じことでは。

実在論者は少数派らしいが、それなりの主張を繰り広げてきたらしい。そのなかでは、欠史は「葛城」地区政権を意味している可能性ありというのが、一定の支持を集めているそうだ。発掘調査を揃える訳にいかない世界だから、そんなことが、簡単にわかるとは思えないが、素人としても、無視する訳にもいかぬので、宮と陵墓の地を眺めて見た。
  初 代 - 畝火白檮原宮[高市] 畝火山北方白檮原尾上陵[高市] 
  第2代 - 葛城高岡宮[金剛山東麓] 衝田岡陵[高市] 
  第3代 - 片塩浮穴宮[大和高田] 畝火山之美富登陵[高市] 
  第4代 - 軽之境岡宮[高市] 畝火山之真名子谷上陵[高市] 
  第5代 - 葛城掖上宮[金剛山東麓] 掖上博多山上陵[金剛山東麓] 
  第6代 - 葛城室之秋津島宮[金剛山東麓] 玉手岡上陵[御所市] 
  第7代 - 黒田廬戸宮[磯城郡田原元町] 片岡馬坂陵[北葛城郡] 
  第8代 - 軽之堺原宮[高市] 剣池之中岡上陵[高市] 
  第9代 - 春日之伊耶河宮[奈良市東部] 春日之伊耶河坂上陵[奈良市東部] 
  第10代 - 師木水垣宮[桜井] 山辺道勾之岡上陵[桜井] 
  第11代 - 師木玉垣宮[桜井] 菅原之御立野中陵[奈良市菅原町] 
確かに、盆地西南辺りの選好はありそうだ。盆地東側の大輪山付近を避けていたと言えなくもない。確かに、欠史八代が創作なら、わざわざこのような地を選ぶのは不自然であるとは言えよう。しかし、それ以上の主張は無理があろう。

それよりは、名前そのものの方が、色々と示唆している点が多そうな感じがするが、このあたりはどうなっているのだろうか。
 曽祖父 - 天津日高日子番能邇々芸[あまつ](ほのににぎの)
  祖父 - 天津日高日子穂々手見ほほでみ or 火遠理(ほおり)
   父  - 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合なぎさたけうかやふきあえず
   子  - 若御毛沼/豊御毛沼(わかみけぬ/とよみけぬ)【@日向】
 ↓  or 山佐知毘古(やまさち)
  初 代 - 伊波礼毘古いわれ
  第2代 - 沼河耳ぬなかわみみ
  第3代 -
師木津日子玉手見[しきつ](たまてみ
  第4代 -
大倭日子すきとも
  第5代 -
御真津日子訶恵志泥[みまつ](かえしね
  第6代 -
大倭帯日子国押人[たらし](くにおしひと
  第7代 -
大倭根子日子賦斗邇[ねこ](ふとに
  第8代 -
大倭根子日子国玖琉くにくる
  第9代 -
若倭根子日子大毘々おおびび
  第10代 - 御真木入日子印恵[みまきいり](いにえ
  第11代 - 伊久米伊理毘古伊佐知[いくめいり](いさち
」との称号付きは、初代と第2代のみ。上つ巻からの繋がり上、ソリャそうなる。
一方、中つ巻の眼目は、「倭」と呼ばれる地区で「天の下をおさめき」スメラミコトが、日本列島を代表するようになった過程を描き切ること。
従って、その最初の時代とは、スメラミコトによる大和地区での覇権確立になろう。それが、初代から第9代までということ。第3代と第5代は該当しないが、「倭」が名称に付くのはそういうことだと思われる。
そして、第10代からは、次の時代である。ここからは、「大和地区の覇権者イコール日本列島支配者」との思想を現実化させた事績を示すことになる。第9代までは、その序曲というか、先ずは大和地区での覇権確立に忙しかったということでは。

そんな感覚で14代に渡る名称を見ると、"山幸彦"は別として、「ヒコ[彦]」という用語は、"○○地区の立派な男性"を意味していると考えればよさそう。このことは、固有名詞ではないから、複数人存在することもありうることになろう。但し、理由は判然としないが、第2代のみ付かない。広域の大和の彦であるとして、地区代表風を吹かさなかった彦と解釈するとおさまりがよいが。
   天津[あまつ]【@日向】
   [やまと],大倭[おおやまと],若倭[わかやまと]【@大和・・・山都の意味か】
そうなると、初代は大和のイワレ地区の代表というだけで、名前が明かされていないことになろう。上記に当てはまらない"欠史"に属する天皇は、シキ津地区、ミマ津地区の「彦」となる。広域大和地区のセンスがまだ安定していなかったことを示しているのかも。
その後は、ミマキ入地区、イクメ入[伊理]地区の天皇となる訳で、すでに天皇は大和の彦であるとのコンセプトが定着したということ。

このように、素直に読むと、いろいろと想像できるもの。

ついでながら、古事記が優れた歴史書だと思ったのは、上記の「日向」という地名。上つ巻では、筑紫の日向として登場するのだが、註は筑紫とは九州一般を指し、"ひなた”的な地区とされている。コレ、素人感覚とは少々乖離がある。
もともとの島生みでの九州は以下の4面。「日向」は無い。
 【筑紫島】
  筑紫国 − 白日別・・・明るい陽光地域
  豊国 − 豊日別・・・豊かな陽光地域
  肥国 − 建日向日豊久士比泥別・・・(説明のしようがあるまい。)
  熊曾国 − 建日別・・・勇猛な男の陽光地域
要するに、初期は筑紫が代表的な国で、肥国は隣り合う2つの国の中間的存在だったということではないか。
整理して記載したくなればいなら、肥国と日向国は次のように書けば理解し易いが、それは当時の実態とはかけ離れているということだろう。
  肥国 − 久士日別
    (久士布流多気[奇石ふる山の意味]は筑紫日向高千穂。)
  日向国 − 向日別・・・日に面する陽光地域
    (禊の地に向かうという説明は解せぬ。)

と言うことで、この辺りで素人の欠史八代話はお開き。

(使用テキスト) 新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997

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