■■■ 太安万侶史観を探る 2014.1.28 ■■■

古事記冒頭での日本的主張

太安万侶の歴史観は卓越していると思う。一種の文明史を描こうとしているように感じさせるものがあるからだ。
真面目に読んでみると、冒頭の描き方は、いかにも、大陸と日本の発想は全く違うとの主張そのもの。
それこそ、「ガツンと一撃」。

この部分は神話だから、神道の解説にも使われる訳だが、歴史観と言うか、文明の基底層をどう考えるべきかという視点で描かれていると見て読むとよいのでは。

その場合、神道の独自性について、頭に入れておく必要があろう。
と言うことで、キリスト教と比較して気付いた「神道らしさ」を、"ダラダラ"と羅列してみた。残念ながら素人なので、網羅性どころか、正確性の自信さえも無い。
 ○宇宙/生物の創造神不在
  ・・・必然的に多神教化
 ○死や苦からの救済思想は欠落
  ・・・天国/地獄観の徹底的無視
 ○洪水生き残り的な、選良意識希薄
  ・・・神からの熾烈な信仰試練未体験
 ○古代からの永続性そのものがレゾンデートル
  ・・・連綿と続くことに意味ありとの思想
 ○自然界の霊的存在全肯定(アニミズムではなかろう.)
  ・・・神と霊は混交状態
 ○神域の穢れ阻止を重要視
  ・・・神霊消滅への強烈な恐れ
 ○清らかな流で穢れを流し去る風習
  ・・・自然の力で死の影をあの世に送付
 ○死後の世界[あの世]への送りの感覚濃厚
  ・・・穢れが魂から神に昇華する考え方
 ○霊を傷つけそうな行為はタブー(仏教の影響もあろうか.)
  ・・・宦官/纏足や去勢/蹄鉄への嫌悪感
 ○土着神への信仰は生活上不可欠
  ・・・土着神は地域の歴史の象徴
 ○祖先神崇拝に於ける系譜的厳密性は不問
  ・・・氏族神への血族外信仰者大歓迎
 ○信仰対象選定は家の慣習以外は個人の自由
  ・・・神霊の峻別はあってないが如し状況
 ○神霊は狭い空間/物体に降臨
  ・・・天への遥拝は異教的との認識
 ○結界[神域]表示は極めて簡素
  ・・・縄と雷を示す切り紙だけの境界線
 ○神宝にはほとんど無関心(天皇家は例外.)
  ・・・実在するモノに価値無しとの哲学
 ○恒久的神殿建造への希求心は希薄
  ・・・祭祀者を除き、屋外拝礼指向
 ○お社設計や参拝儀礼における形式には拘り
  ・・・様式で固有性発露と統一性実現
 ○神霊域全体での的感興を尊重
  ・・・神霊空間に「自然界」的環境を要求
 ○神霊降臨地周囲は自由解放地
  ・・・できる限り、神域周囲から生活臭を排除
 ○偶像崇拝感覚は皆無
  ・・・依り代への特別な尊崇は不用
 ○神霊の定義は自由自在
  ・・・神的存在との認定に制約皆無
 ○神霊の分割招請[勧請]が可能
  ・・・信仰者が分霊化や祭祀場所を指示可能
 ○経典類排除
  ・・・論理や原則は曖昧
 ○神のお言葉は例外的
  ・・・言葉は祭祀者/信仰者側のもの
 ○開祖/教祖不明(除新興教団)
  ・・・宗派組織化困難
 ○祭祀者は布教活動とは無縁
  ・・・神への奉仕と報告/願伝達者
 ○渡来の異教神も原則的には容認
  ・・・共存だけでなく、必要なら習合も可能
 ○分派間の差異が不明瞭
  ・・・相違点は由緒と様式
 ○神への信仰告白不要
  ・・・成人洗礼や懺悔的な行為は皆無
 ○神霊との共飲食が信仰そのもの
  ・・・共飲食で霊力を頂戴する発想
 ○神霊への生贄を嫌悪(仏教との混交かも)
  ・・・犠牲発揮は信仰発露と無関係
 ○神霊が喜びそうな方法での感謝祭挙行
  ・・・お祭は神向けエンタテインメント
 ○出家宗教家制度の否定
  ・・・世俗生活者が祭祀担当
 ○生活に係わる戒律非提示
  ・・・修道的生活の実践とは無縁
 ○祭祀伝習を重要視
  ・・・神霊との一体化儀式が宗教の核
 ○可能な限り秘儀祭祀の伝統維持
  ・・・祭祀に於ける古代の息吹の保存
 ○現世でのご利益祈願が信仰主体
  ・・・魔除/厄除/開運等なんでも
 ○ト占容認
  ・・・神霊の御意思はヒトには認識不能

長々と記載したのは、日本の信仰とはどのようなものか、全体像が見易くなるから。そうすれば、思い込みから自由になれるかも。
一神教で無い点を一番の違いとしてあげる人が多いが、こうして眺めると、そういう話よりは、「戒律」を守って「修行」に励む「宗教者」が存在せず、自由に信仰対象の神を選択できる点が特筆すべきではないか。これを一神教的発想から見ると、特定の宗教を風俗・風習的範疇に抑えこんでいるだけということになるかも。

問題は、どうしてこのような違いが生まれるかである。

思うに、日本列島に住み始めた人のなかには、果てしなき抗争や厳しすぎる生活環境に耐え切れず、移住してきた人々が多かったのでは。安心して、土着民として生きたいと願う人達が次々と来訪した可能性もあろう。信仰にとんでもなく寛容なのは、そういう感覚の部族が、列島にバラバラと住む状態だったからとは言えまいか。
そもそも、南北に長い列島だし、地形も急峻で、狭い地域毎に環境は微妙に異なるから、それぞれ勝手に生活場所を選んで平和共存ということが可能だった筈だから、新参者大歓迎では。
なにせ、来訪者とは、異なる環境で生活できる高度なスキルを身につけているし、コミュニケーション能力も卓越している上に、武力もハイレベル。もちろん、「海人」である。そして、互いに婚姻関係を結びながら、経済発展に勤しんだというのが超古代像ではあるまいか。

根拠なき推測にすぎぬが、古事記冒頭はこんな見方と親和性が高いように思う。

この部分は、普通、「天地開闢」と呼ばれる。それは太安万侶が序文で「乾坤初めて分れて、參~造化の首を作し、陰陽斯に開けて、二靈群品の祖たり。」との解説をつけているから当然かも。当時の朝廷では、陰陽発想的世界観が当たり前だったのだろう。
しかし、古事記本文では、あくまでも「天地(あめつち)のはじめ」。「天」と「地」が、混沌とする宇宙から分化するイメージとは、天と地の開きがあろう。なにせ、最初の神が登場する前に、すでに、天と地が存在しているのだから。要するに、「天地」には霊的な動きが全くなかったが、突如にして、「高天ノ原」の方で動きが始まったと言うのである。
このことは、日本列島に関係する神々は宇宙創造に全く関与していないということかも知れぬし、宇宙とはもともと神が創造したものでは無いと考えていた可能性もあろう。残念ながら、どちらなのかの判断材料は提供されていない。
従って、日本史を考える際には、そんなことを考える必要など無いと主張しているとも言えよう。

この冒頭部分に登場する神は全部で5柱。「みな獨~に成りまして、身を隱したまひき」存在。接点が断たれたのだから、本来的には人々の信仰対象にはならない。霊力としてふと現れ消えていくというのが日本の風土だと指摘している訳だ。そんなこともなり、「別天ッ~」とされており、形而上の神と考えるのが自然。しかしながら、序文で造化3神とされるうちの、最初の神は以後どこにも登場しないが、2〜3柱目の対名称の産巣日ノ~は、後々の話で、地上との関係が生まれているから、そうとも言えないようだ。(高御産巣日神は天孫降臨で、神産巣日神は出雲国造りと五穀で。)

だが、なんといっても、読む側にインパクトを与えるのは4柱目の「葦牙の如萌え騰る物に成りませる」~の登場。「國稚く、浮脂の如くにして、水母なす漂へる」状況でのことだからでもある。
日本文明の発祥というか、風土論的原点を簡潔に示しているように思えるからだ。・・・霊的な動きこそすべての源であり、それはあたかも葦がスクスク伸びるように感じるが、そんな精神風土こそが日本の原点と看破した訳である。このことは、全く手がつけられていなかった、水辺の葦が鬱蒼と生える地で、生活の息吹ありとの指摘と見ることもできよう。
それは日本列島での動きが本格化する以前の話である。葦牙の~は「地」で成ったのではなく、あくまでも、「高天ノ原」上で。つまり、そこは~だけが存在する「原」ではあるが、「地」の情景と大きく違わないことになる。

(使用テキスト)
旧版岩波文庫 校注:幸田成友 1951---底本は「古訓古事記」(本居宣長)
新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997

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