■■■ 太安万侶史観を探る 2014.2.11 ■■■

古事記の神話的見方の例

小生が考える、古事記上巻の【第2期】〜【第6期】は、イザナギノミコト主導の日本列島における文明黎明期を描いた箇所。神話的見方で語れば、イザナギのお話と言ってよいだろう。
  【第1期】 日本列島に未だヒトの影無し
  【第2期】 ついに、日本列島にヒトの営み始まる
  【第3期】 日本列島に海人文化圏ができあがる
  【第4期】 社会が発展し、火のイノベーション発生
  【第5期】 武力と呪術の祭祀政治が当たり前に
  【第6期】 祭祀社会が広まりし国家樹立へ

なにせ、読み応えある展開である。
詔を受ける立場のから、大~大御~へと日本列島の最高神に上りつめたからである。その最終期は「高天原」の地位を凌駕するまでに。なにせ、「地」に居るにもかかわらず、「地」で生んだ我が子、アマテラスを「高天原」の統治者に指名できる力を持つようになったのだから。(どうしてそんなことが可能なのかは、問わないのが日本の礼儀である。)

しかし、日本列島の統合までは至らずに終わった。

ここから、次の神話に引き継がれる。
生まれた当初から大御~であるアマテラスと、一般扱いのでしかないスサノヲの逸話が始まる。

思うに、前者を始祖とする絶対王権的な為政者なら、アマテラスの事績を描くことに注力するのでは。いかに神々しいかさえ提示できれば十分な筈。そして、後者はとるにたらぬ存在ということで、割愛してもよいのだ。しかし、古事記はそうはならず、スサノヲ中心の詳述が続く。史書だからである。
ただ、神話であることは間違いないから、そんな感覚で、「神」の物語を拝見しておくことも必要かも知れぬ。

と言うことで、上巻の【第7期】の太安万侶史観を探る前に、寄り道して神話として眺めておこう。

その場合、【第6期】の後半からスサノヲの命の時代としないと締まりが悪い。・・・以下のような流れで解釈せざるを得ないからだ。
このような展開話は、結構聞き易いのではないかという気もする。史書だから、読者はインテリしかいないだろうが、いかにも大衆信仰を生み出すシナリオに仕立て上げられているのが秀逸。と言うより、神話とはそういうものなのかも。
 【1:幼年期】・・・葦原ノ中ッ國
   亡き母親への耽溺。泣き叫び我儘三昧。
   勘当。
   [髭が長く伸びるまで続いたとされる。]
 【2:少年期】・・・高天原
   傍若無人。反社会的な姿勢での暴虐三昧。
  【2a】 大御~との「誓約」で子生み. 勝ち誇り狼藉.
  【2b】 怒りを招き、天岩戸問題が発生し、追放される.
  【2c】 食糧の神を殺す.
 【3:青年期】・・・斐伊川上流
   社会の為に英雄的に一働き。
  【3a】 武力の象徴たる剣を天照大御~に贈呈.
 【4:壮年期】・・・出雲の須賀
   助けた美しい娘と結婚し宮を造営。
   神裔作り。
 【5:老年期】・・・根の堅洲國
   閉鎖的権力者。娘溺愛。
   娘への求婚者に敵意剥き出し。
   寝るばかりで、力喪失。略奪防げず。
  【5a】 後継者の婚姻を承諾し正統性付与.

イザナギから「追放」されたかと思いきや、その地に戻り、出雲に居座れるという不思議さ。追放者が逝ってしまったということか。こうした展開に社会のルール感はなさそう。成果があがれば、称賛すべしというのが、「日本的神」の世界の体質なのだろうか・・・と指摘してはいけない。芥川龍之介はその辺りを感じとっていたのでは。そう思うのは小生位かも知れぬが。
尚、言うまでもないが、古事記には、この後、スサノヲの命は二度と登場しない。

ついでながら、上記ではアマテラス大御神が関係するお話は、サイドストーリー。しかし、最高神だから、影響力甚大な事績が示されることになる。こちらも神話的に着目すると、不思議感に襲われる。どのような特徴の神か、さっぱりわからないからである。時間的順序で眺めると以下のようになる。
 【A:大人しく真面目で従順】・・・中性的
   高天原担当となり、統治体制を着々と整備。
 【B:武将として先頭で戦う体勢】・・・男性的
   スサノヲの侵略に武人として徹底抗戦体勢。
 【C:姉的な弟擁護姿勢】・・・女性的
   スサノヲの暴虐行為を良い意味に解釈。
 【D:酷な仕打ちから逃避隠遁】・・・弱者的
   閉所に自ら隠れ交流遮断。
 【E:注目されなくなると不安】・・・非自立的
   無視されて、皆が愉しんでいると気もそぞろ。
 【F:お人好し】・・・熟考無しで直感的
   騙しに乗せられる。あるいは、乗るのかも。
 【G:背後での間接的権力】・・・権限委譲タイプ
   任務担当者を指定し、助力するだけ。
この状態では、ほとんどつかみどころがない。
精神的に不安定とか、鵺的で自己意識に欠けると見られてもおかしくなかろう。しかし、これこそが、日本の象徴たる、"最高神"の性状そのものなのだ。と言うことは、この柔軟性こそが日本の神の特徴と思われる。表面的な様式さえ保っていれば、実行為では、どのようにでも柔軟に対処できるということ。だからこそ、「習合」が可能と言うこと。

このような見方がはたして「神話学的」な見方に近いものか、素人なのでさっぱりわからぬが、これはこれで脳味噌の刺激にはなるのではなかろうか。太安万侶史観の話の腰を折った感じもするが、ふらふら寄り道するのもまた一興ということでお赦しのほど。

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