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■■■ 太安万侶史観を探る 2014.7.1 ■■■


高千穂峰降臨の見方 (2)

早速、降臨地を検討してみよう。
 「天降坐于
   筑紫日向高千穂之久士布流タケ(多気)。

国生みでは、九州は「筑紫島」。身1つで、4面とされていた。"日向"は無い。
 ・筑紫国:白日別 [福岡県]
 ・豊国:豊日別 [大分県]
 ・肥国:建日向日豊クジヒネ(久士比泥)
 ・熊曾国:建日別 [熊本県南部+鹿児島県]
4択なら、肥国にある"岳"と考えるしかあるまい。

ただ、"日向"がここで唐突に登場した訳ではない。3柱の貴神が生まれた地も筑紫日向なのだ。
 「到坐筑紫日向之橘小門之阿波岐原而、
   禊祓也。
これは祓詞で多用されるから、実際の地を示すものではないとの註があるが、勝手な理屈と言わざるを得まい。"日向"だけ使われているならわからないでもないが、2回も、しかも細かな地名らしき名称まで叙述しているのだから。

どういう理由でそのような強引な解釈をするのかさっぱりわからぬが、九州地区を重要視したくないのだろうか。しかし、古事記での記載は明らかに逆である。国生みで、"大八島国"を生んでからの記載を見れば、その感覚がわかろうというもの。
秋津嶋からの帰りに生んだ6島を見ればはっきりしている。・・・吉備の児島半島、小豆島、山口県屋代島(大島)、大分県国東半島沖の姫島、長崎県五島列島(知訶島)、長崎県男女群島(両児島)。その先に本貫地があるのだろう。

ともあれ、峰の地は、笠沙御前(岬)を通って行ける場所。川をさかのぼって到達できる所ということか。
 「此地者、向韓国、
  真来通笠沙之御前而、
  朝日之直刺国、夕日之日照国也。
  故、此地、甚吉地、
朝日も夕日も差す大変に良い地という表現から見て、盆地であることを示しているのだと思われる。
笠沙岬の場所は諸説ありそうだが、そこはニニギ命が后に出会う場所でもある。生まれた御子の海佐知毘古は隼人アタの祖とされているから、南九州地区であるのは間違いないだろう。
ところが不可思議なことに、韓国に対面していると、真っ先に記載している。従って、その意味がわからず、たいていは無視することになる。あるいは、将来的に朝鮮を支配する気があるとの解釈がなされたり。小生には、それが土地の特徴とどう繋がるのかさっぱり理解できぬが。

そんなこともあり、この場所がどこなのかは、簡単な話ではない。それに、高千穂の峰の伝承からの比定地も二ヶ所あるそうだ。それぞれの特徴は、ざっとこんなところ。
●宮崎/鹿児島県境の霧島連峰の第2峰(1,574m)
 ・連山の最東で、お鉢の並び
   えびの岳-白鳥岳-韓国岳(1,700m)-新燃岳-矢岳-お鉢/高千穂峰
 ・活火山(周囲の地層は火山灰/火山礫)
 ・夏季降水量膨大(年間4,500mm以上)
 ・到達ルートは様々
  (宮崎側)・・・岩瀬川〜大淀川
   [山頂部]西諸県郡高原町
   [北斜面]小林市(夷守) (西側:えびの市)
   [南斜面]都城市(島津荘) (南西側:曾於市)
  (鹿児島側)・・・錦江湾へ
   [西斜面]霧島市(姶良)
●宮崎県北端の西臼杵郡高千穂町
 ・祖母山(1,756m)源流の五ヶ瀬の盆地的渓谷域
 ・到達ルート
   -延岡から五ヶ瀬川沿い
   -熊本山都(阿蘇外輪山南)から馬見原峠越え

常識的判断なら、高千穂町となろう。
御降臨命令の言葉で、「水穂」の国と明確に定義しているのだから。
 「此豊葦原水穂国者、汝将知国言依賜。
  故、随命以可天降

火山灰台地での稲作は無理筋だからだ。しかも、夏季の多雨状況からすれば、植える時期もずらす必要があろう。
しかし、霧島岳がまるっきり無縁ということもなさそうである。脚色も含まれていようが、宮崎から鹿児島にかけて様々な伝承があるのは間違いないからである。

ついでに、この地域の神社を眺めておこうか。
個々の神社では、由緒はなんらかの事情で書き替えられたり、ご祭神を変更する場合は少なくない。従って、ママ信用する訳にはいかない。概して、国の正史を記した「日本書紀」の内容に合わせて設定されているような話が多い印象を受けるから、尚更。高千穂町には高天原の地も設定されているが、流石に、これらは除いた。
しかし、それでも、全体を北から眺めていくと、実に、示唆に富んでいることがわかる。

*** 大分県 ***
  <古要神社>@中津市---隼人の霊を鎮める傀儡子舞
  <宇佐神宮>@宇佐市
  <伊勢本社>@佐伯市---東征航海中に暴風雨で避難
*** 宮崎県〜鹿児島県 ***
●西臼杵郡高千穂町(延岡に注ぐ五ヶ瀬川上流)
觸神社>@三田井
  ご神体:觸の峯
<荒立神社>@三田井 宮尾野
  ご祭神:猿田彦命+天鈿女命
<高千穂神社>@三田井
  ご祭神:鎮圧した勢力[鬼八]の霊
●日向市南の美々津(耳川が注ぐ)
<立磐神社>
  東征出発地
●西都市(一ッ瀬川が流れる日向の中心地)
<宮の跡>@三宅
<都萬神社>@妻
  ご祭神:木花咲耶姫
<大山祇陵>@三宅
  大山積見神の御陵
西都原古墳群:4〜7世紀前半>
  311基(前方後円墳31).九州最大180m規模も.
●宮崎市(大淀川が流れる.)
<宮崎神宮>@宮崎市市街中心部
  若ミケヌ命の初住居
●宮崎〜日南の中間
<青島神社>@宮崎市青島
  ホホデミ尊[山幸彦]が海宮から帰還の際の住居
●日南市
<鵜戸神宮>@宮浦 日向灘突出岬
  ウガヤフキアエズ尊の生誕地
<潮獄神社>@北郷(満潮時到達)
  ホデリ命海幸彦がご祭神
<生達神社>@北郷
  若ミケヌの命の養育の地
<駒宮神社>
  ご祭神:若ミケヌ命宮地
<吾平津神社/乙姫神社>
  ご祭神:若ミケヌ命后
霧島山麓
<狭野神社>@西諸県郡高原町
  若ミケヌの命の誕生地
<宮の宇都>@高原町蒲牟田
  ウガヤフキアエズ尊の宮地
<霧島岑神社/東霧島神社/霧島神宮/霧島東神社>
  山岳信仰地、かつニニギ尊降臨峯
●錦江湾
上野原遺跡:約7,500年前>
  湾に突き出た台地.
<宮浦宮/福山宮浦神社>@霧島市福山 鹿児島湾岸(対岸:櫻島)
  若ミケヌの命仮住居
<鹿児島神宮>@霧島市隼人町
  日子ホホデミ尊の宮跡
●薩摩半島西南部(リアス式海岸)
<野間神社>@南さつま市
  ニニギ尊初上陸地(野間岳)
●薩摩半島東南部
<枚聞神社>@指宿市開聞
  ホオリ命[山幸彦]が訪れたワタ津見神の宮
要するに、降臨後に宮崎県から鹿児島県にかけた辺りで、隼人勢力と一緒になって、大和における天皇家繁栄の基盤を作ったことは間違いなさそう。

しかし、どうしてこの地域なのかがわかりにくいところ。何故かといえば、渡来して、明らかに海人である土着の隼人に認められた理由が判然としないから。従って、想像するしかないが、それは難しい訳ではない。
と言うのは、上記でそんな頭の働かせをしているが、それは「常識的」は発想でしかないからだ。つまり、火山灰台地では、渡来の稲作技術を持つ人達が入植することはなかろうという見方。
それなら、宮崎県北部の高千穂渓谷なら向いているかといえば、決してそうは見えまい。しかし、よく考えてみれば、南の暖かい地域の高地の小さな盆地での最新稲作技術を持って渡来した人々と考えれば、話はかわってくる。高千穂町こそ住みたい場所と言えよう。まあ、"雲南"の少数民族が山の狭い盆地に水田を作って稲作をするようなもの。極めて高度な灌漑方式であり、栽培にも手がかかるから、そう簡単に真似ができる技術ではない。しかも、その地にあった稲というものがあり、力ある種籾を選ぶことができる鋭い感性を持った人が存在するか否かで、部族の運命が決まりかねないのだ。当然ながら、地元の小山信仰などありえず、源流の峰信仰に変わる。
まあ、そんな稲作技術の結晶が棚田であり、その名残は今でもみることができよう。(末尾に棚田百選をあげておいた。)

このような渡来人は、海を渡ってきたという点では、海人なのだが、高地小盆地を好む山人でもあることを忘れるべきでない。しかし、山岳部族とは違う。船を操る能力が桁違いに優れていたからだ。
もちろん、大洋の島伝いでの航海術は、完璧な海人である隼人勢力の十八番でかなうものではない。海洋貿易で暮らしていた部族だろうから、当然だろう。
(言うまでもないが、倭では、貝輪がとてつもなく重要なアクセサリーであった時代があったことが知られている。その産地は屋久島以南。隼人以外にそれを扱える部族はいまい。それは膨大な富の蓄積を生んだ筈。貝信仰を駆逐する宗派が主流になるまでは。)

だが、隼人が用いていたと思われるのあh、波に強いアウトリガー船や何人もが漕げる船。川を遡る航行となれば、この手の船は全く通用しまい。
しかし、そうは言っていられない。良質な船材を得るには大木が残っている山へ入って運搬する以外に手はないからだ。丸太筏を流せそうな川を選ぶにしても、様々なモノを上流に運搬しない限り、こんな仕事はできかねる。従って、川上り運航技術の有無は生命線と言ってよいだろう。
そんな高度な技術を持つ人々が渡来してきたら、崇めてもその力を借りたくなる筈である。

降臨した部族は、ここにピタリと嵌ったに違いなかろう。隼人の超お気に入りということ。しかも、基本は耕作の民なので、貿易型部族にとってはバッテイングするところは何もない。渡来族が高地盆地が欲しいというなら、そこの土着部族を排除して、繁栄して食糧を供給して欲しいと願うのが自然な姿勢。

そうそう、ひょっとすると、降臨部隊は「小型馬」もつれてきたかも。船を川の上流に運ぶには、馬の力を利用したくなるからだ。阿蘇や大隅辺りは観光的な馬の放牧地化が簡単であることからわかるように、馬用の草地は豊富。ところが、放牧をコアとする遊牧民的な生活は生まれてこなかった地である。そこは、丹念に、船にも乗れる有能な使役馬を育てる地だった可能性もありそう。
まあ、そんなことをついつい想像してみるのは、日本で、馬肉好きな地は肥後と信州しかないように見えるからでもある。霧島辺りの高地は馬を育てる好適地だったということでは。

さて、述べていない韓国問題だが、高千穂峡の峰から見えるというのはいかにも唐突。しかし、こうした見方を敷衍するならそう難しく考える必要はないかも。当時の日本列島は、渡来人も土着人も様々な場所に住んでいたとするならの話だが。(それこそ雲南のように逃亡者が逃げ込む地だったということ。)
大分県は朝鮮半島からの渡来人の邑があったということでは。おそらく、宇佐のことだと思うが、その昔は朝鮮半島の渡来人だらけで、独自の文化を感じさせる小さな「国」だったのでは。

─・─ 「日本の棚田百選」選定地 宮崎県/鹿児島県─・─
●西臼杵郡
 ・日之影町・・・七折戸川 石垣の村

 ・高千穂町・・・三田井 栃又、 岩戸 尾戸の口、 押方 徳別当
 ・五ヶ瀬町・・・三ヶ所鳥の巣 鳥の巣、 三ヶ所上日蔭 下の原、 鞍岡下長司 日蔭
●西米良村・・・上米良二畝ノ谷 向江、 竹原春の平 春の平
●日南市・・・酒谷甲坂元 坂元
霧島山周囲
 ・えびの市内堅 真幸
 ・姶良郡湧水町(栗野町)幸田

●大隅半島南・・・南九州市頴娃町牧之内 佃
●鹿児島県北西・・・薩摩川内市入来町浦之名 内之尾

─・─ 次回に続く ─・─

(参考) 高千穂町観光協会観光スポット ひむか神話街道 ツーリズムおおいた 玄松子の記憶
(使用テキスト) 新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997


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