表紙 目次 | ■■■ 太安万侶史観を探る 2014.8.12 ■■■ 古事記が示唆する宗教の変遷 古事記の上ッ巻は、「神話」とされているが、後世から見ればそう映るというにすぎまい。 すでに太安万侶の時代にその状態だった訳で、そうした見方について、わざわざ「序」文で触れていることでもわかる。しかし、この書はあくまでも、天皇家の口承歴史を文字化したもの。安万侶の視点で流れがわかるように、編纂したことがしっかりとうたわれている。 従って、そういうモノとして、素直に受け取り、そのママ読むべきでは。 ところが、理由はわからぬが、そうした姿勢は異端とされるようである。 後世に加えられたつくり話が加わっていると見なすのが一般的らしい。もちろん、その可能性は高かろうが、都合のよい箇所はそのまま使って、自説に合わないモノは作り話とみなして取り去るという手法はいかにもまずい。反科学の立場なら別だが、普通はそんなことを平然と行う人はいないものだが、この分野は違う。いわば、科学的装いのフィクションが当たり前の世界。歴史書だから、解説書にはご用心である。 ・・・と言うことをくどいほど繰り返し書いているが、これは強調しすぎということはない。理屈がさっぱりわからぬ自己流解釈が余りに多そうだからだ。 今回は、古事記を倭の宗教史が直截的に描かれている書として読むことも可能ではないかということで取り上げてみたい。 そんなことをする人がいないのは、実は、我々の常識に反する流れが浮かび上がってくるからである。 その辺りを探っていこう。 先ずは古事記冒頭での宗教観。 <古事記・別天ッ神五柱のうちの造化三神[独神]> 【天原中心】天之御中主 【生成力[天津神]】高御産巣日神 【生成力[国津神]】神産巣日神 ここは実に悩ましい箇所。 天之御中主信仰が現代まで受け継がれてきたとは言い難いからである。 しかし、日本は神国であると主張したい人が多い国であるから、この状況を肯定したくはなかろう。これらの始原的な神を除いて、天照大御神や大国主の命を突然に祖神とする信仰としてしまうと、いかにも中途半端な感じは否めないからだ。 おそらく、明治維新の頃に、ここら辺りを大きく変えようと図ったに違いない。そう思うのは、この大変革期に、突然、天之御中主とご祭神の習合を図った宗派が存在するからだ。 ・仏教系-妙見信仰(北極星・北斗七星) もともとは道教-天皇大帝 ・平田篤胤教学系-大教院 この流れを受けた神社がそこここで見られる。 ・水天信仰系-水天宮 もともとはバラモン教-ヴァルナ[天空神] しかし、上記を除けば、ほとんど広がりを見せずに終わったと見てよいだろう。 何故か? おそらく、それは、「造化の神」あるいは「宇宙の中心」という表現にあったと思われる。前者は西欧の「創造神/God」を思い起こさせるし、後者は儒教の「天(宇宙)」イメージに重なるからである。 もしも、「創造神/God」と習合したりすれば、国体護持の観点でいかにもまずい訳で、耶蘇教排斥上「造化の神」信仰は抑制されたに違いなかろう。(復興過程にあった仏教の僧侶が率先して動いたのではなかろうか。) 一方、儒教は社会に遍く浸透していた筈だが、朱子学-陽明学の転換にともない、道徳律のみの移入が強化され、宗教的な部分をことごとく削除する動きがあったと見てよかろう。そうだとすれば、儒教の宗教的部分である、「天(宇宙)」の信仰もえらくまずい訳だ。 しかしながら、古事記では原初の「神」はあくまでも天之御中主なのである。 そこで、専門家のなかには、道教の至高神を"後から加えた"と見なす人もいるようだが、そういう見方をし始めたら切が無かろう。どこにでも、そのような箇所があっておかしくないのだから。 それに、俯瞰的に眺めれば、道教や儒教とは構造が全く異なる。老子は実在人物ではないらしいが、ともあれ両者ともに、宗教としての開祖を信仰している点に注目すべきである。古事記の世界とは全く異なるのである。 <道教・天尊-三清神>> 【創造神】元始(玉) 【道祖神(開祖)】老子(太) 【万霊神】霊宝(上) <儒教> 【天】 【開祖】孔子 【各氏族祖先霊】 尚、道教にはいくつかの宗派があり、上記のように言ってよいのかはよくわからない。なかには、天地開闢神話の盤古を接ぎ木している場合もあるからだ。 ちなみに、天皇という道教用語は上記の「三清神」ではなく、その補佐役に該当するようだ。両者は実体的には同じで、抽象化しただけかも知れぬが、様々な解説があって、生憎とこの辺りの素養に欠けるのでなんとも言い難し。 <道教の大帝-「三清神」補佐> 【天道】玉皇 【経緯】北極紫微 【天/地/人】天皇 [-地皇-人皇] 【大地山河】后土皇地祇 「水天」との習合もあるから、同様なスタイルで仏教も眺めておこうか。 <仏教・如来> 【開祖】釈迦牟尼 【医王】薬師瑠璃光 【無量光】阿弥陀 密教では、宇宙の中心には大日如来が坐しているし、鎮護仏教では盧舎那仏。しかし、それはかなり後世のことで、この辺りが古代信仰の形態だろう。 言うまでもないが、仏教は、他の様々な信仰を取り入れ、習合を図ってきた。常識的には、クシャトリア(王族)たる開祖が、一階級上のバラモン(僧侶)を乗り越えた訳だから、「水天」は直系的な神といえよう。 <バラモン教> 【雷霆神[仏教:帝釈天]】インドラ 【天空神[仏教:水天]】ヴァルナ 【火神[仏教:火天]】アグニ なんとなくだが、有力部族神が束ねられただけのような感じがする。王が代わり、信仰対象が変化しても、僧侶がそれに合わせて至高神も変更してきた結果を示しているのでは。 しかしながら、結局のところ、仏教開祖は多数の神の1つとして扱われてしまうのである。カースト制と殺生を否定する道徳観はインド社会に合わなかったということなのだろう。 <ヒンドゥー教・三神一体="aum"> 【創造神[激]】ブラフマー(a) 【繁栄神[純粋]】ヴィシュヌ(u) 【破壊神[闇]】シヴァ(m) ヒンドゥー教に開祖は存在しないが、宇宙神が明瞭になっているのが特徴である。三神一体思想も含め、繁栄する「聖書の民」からの影響が大きそう。 ただ、「聖書の民」の特徴は預言者が神の言葉をきく点にあり、その辺りの思想はインド社会には受け入れがたかったと見える。 <キリスト教・三位一体> 【創造神[実体としての力]】父なる神 【ロゴス[言葉]】独り子なる神(イエス・キリスト) 【聖神[愛]】聖霊(聖人に降臨ということだろう。) その古い形はもちろん部族宗教である。 <ユダヤ教> 【創造神】ヤハウェ 【預言者[民族指導者]】モーゼ 同じ「聖書の民」でも、対立的な宗派もあるが。 <イスラム教・六信から> 【創造神[絶対神]】アッラーフ 【預言者[使徒]】ラスール(ムハンマド) 【天使[光]】マラーイカ こうして眺めていると、「精霊信仰→多神教→宇宙神→開祖信仰→体系化した一神教」という流れで考えていることに気付かされる。それははたして確かなのだろうか。 古事記からすれば、天之御中主という「神」の概念が最初に生まれたことになる。現代の感覚ではまさしく一神教。ただし、それは神と人との間の契約というなかでの話であるから、それとは全く異なる。それに、「天」を創造した訳でもない。「天」の存在は前提なのである。 そこから、日本列島が生まれ、次に様々な神々が生まれる。先ずは、「神」が活躍する土地の範囲が決まって、そこに存在する様々な霊的存在への信仰が生まれたと書いてある訳だ。 「一神教→多神教」の流れであり、常識に反する。体系化するために、そうしたというのは、勝手な解釈であり、そういうものなのかも知れぬ。 この場合の多神教をアニミズムと考える人も多いようだが、出雲文化が生まれるようになると、万物に霊が籠るという発想は通用しなくなっているように思える。どうも、死の世界と隣り合わせな感じもある一方で、神奈備(御神体山)型信仰に集約されていそうだし。 そして、出雲は矛の神の地でもあることがよくわかる。 それに「地母神」的な思想も濃厚そのもの。各地の土着神の娘を后にするというのは、政治的な同盟関係締結であるが、それを支えるのが、婚姻関係によりその土地の霊気を得るということを意味していそう。およそ、アニミズムとは縁遠い宗旨といえよう。 降臨に当たっては、高木の神の出番となる訳で、再度、上に伸びる樹木信仰が復興したということでもあろう。さらに、高千穂降臨から先では、新しい宗旨が加わる。花の霊が、命の息吹となるのである。これは単純なアニミズムとは言い難い。初春の芽吹きから、開花へと進むシーンこそが、信仰の核であり、「生まれる」ことに意味がある訳で、そこ存在する霊という訳ではない。現代感覚では、山桜の霊を考えてしまうが、それは間違いではないが、おそらく稲魂でもあろう。天皇家にとって最重要な祭祀は、稲魂から霊を頂く儀式になったということ。 つけたしとして、古事記の中ッ巻の話もしておこう。ここには、「神」による政治から、「律令」的政治に変わる結節点がはっきりと記述されている。白鳥が魂を運んだ時点で、祭祀型統治は終焉したのである。いみじくも、それは十二支最後の猪によって発生したのである。 そして、それまでは、血族婚は当たり前だったにもかかわらず、それがタブー化され、天皇になる地位であっても、「社会」がそれを容認できない場合は罪人とされてしまうようになってしまった。官僚がルールに従って動かす仕組みになったことを示しているといえそう。 こんな具合に読むと、いかに奥が深い歴史書かが次第にわかってくる。 古事記を読んで−INDEX >>> HOME>>> (C) 2014 RandDManagement.com |