[→本シリーズ−INDEX]

■■■ 古代の都 [2018.10.3] ■■■
[2] 葛城高岡宮

2代 神沼河耳命綏靖天皇の宮は葛城高岡宮。妃は河俣毘売(師木の県主の祖)。
御陵は橿原の衝田岡。45歳崩御である。

実に簡略そのものの情報しか記載されていないように見えるが、様々な仕来りを示唆している。

初代からの血筋についても再度記載されているし。・・・
@日向┬阿比良比売(阿多の小椅の君の妹)
┼┼┼├─多芸志美美命
┼┼┼└─岐須美美命
つまり、出自的には九州南部勢力に支えられていたが、全面的に大和盆地の土着勢力との一体化を図ることにした訳である。しかし、初代の御子の名称は、上巻の神々と同様な扱いだし、"耳"がつくから、九州的風俗がまだまだ色濃いことを意味しよう。そう簡単に土着勢力に溶け込んだ訳ではなさそうだ。

大物主@三輪┬勢夜陀多良比売(三嶋湟咋の娘)
┼┼┼┼┼┼丹塗矢陰部突き
┼┼┼┼┼┼└─富登多多良伊須須岐比売命
┼┼┼┼┼┼┼┼(=比売多多良伊須気余理比売)
初代┬─────〃@狭井の河之上(三輪山麓)・・・大后
┼┼├─日子八井命
┼┼├─神八井耳命
┼┼└─神沼河耳命⇒皇位継承[2]

初代崩御で御子 当芸志美美命は正妃 伊須気余理比売を娶ることになる。長子が義母や妾を引き継ぐ習慣があったことがわかる。突然、庇護者を失うことになるから、当然のこととされていたのだろう。(同母の姉妹との婚姻は禁忌だが、義母の娘との婚姻関係は珍しくなかったから、何の違和感もなかったと見てよいだろう。)
「古事記」ストーリーとは、ある意味、皇位争奪の血を見る抗争史でもある。実子が若いうちに支持者を集めることは無理難題であり、多くの場合は力を持っている兄弟あるいは親戚筋が皇位奪取を図って当然ともいえよう。
皇位継承には特別なルールは無いのである。

この場合は、皇后が御子の命を狙っている当芸志美美命を倒すように仕向けたということになる。・・・
 狭井川由 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす
 畝傍山 昼は雲と居 夕去れば 風吹かむとぞ 木の葉騒げる

当然ながら、この警告に見事応える力があった神沼河耳命が天皇となった訳である。
そして、葛城高岡に宮、となる訳だが、その選定理由は上記の歌から自明である。高台から一直線に見渡せる場所だからだ。
 葛城高岡─畝傍山─狭井川(三輪山麓)
しかも、その地は一言主の神の領域でもあり、三輪の神と並ぶ力を持っていたのは間違いない。

そして、初代とは違って、磯城土着の女王を后にしたのである。
天皇┬河俣毘売(師木県主の祖)
┼┼└─師木津日子玉手見命⇒皇位継承[3]

初代の皇后は三輪山系勢力であるが、仕立てられているとはいえ、歌垣で婚姻関係を結び、通い婚風習にも従ったが、2代は政治的な婚姻関係を選んだことになる。

2代は45歳崩御と常識的な線だが、初代の寿命は常識外れに長い。おそらく、その統治が長かったということであろう。ただ、どちらもあくまでも年齢であり、在位期間を示している数字ではない。このことは、皇位継承の儀典無しでの、生存中の退位とママ引き継ぎの習慣を意味しているのかも。皇后が実権を握っていれば難しいことではなかろう。

畝傍山は"神奈備"の地であるが、そこは祖神宿る御陵の地とされたのだと思われる。神沼河耳命も御陵は、葛城高岡近辺ではなく、あくまでも畝傍山なのである。この原則は4代まで続いている。そこまでは直系扱いなのだろう。

↓葛城山
┼┼↓葛城川
┼┼↓R24
┼┼
┼┼
┼┼○──←近鉄御所駅 JR御所駅
←九品寺
<∴←葛城高岡宮◆2
←一言主神社
┼┼
──┤←一水越川
┼┼

↓曽我川
┼┼┼↓近鉄
┼┼┼↓R169
┼┼←衝田岡陵◇2
┼┼←畝火山北方白檮尾上陵◇1
←畝傍山 うねびごりょうまえ駅
┼┼←畝火山之真名子谷上陵◇4
┼┼←橿原神宮≒畝火之白檮原宮◆1
←畝傍山之美富登陵◇3
┼┼←深田池
──○──○←にしぐち駅 かしわらじんぐうまえ駅
┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼←剣池 剣池之中岡上◇8
┼┼┼┼┼←軽島明宮◆15
┼┼┼┼┼←法綸寺(軽寺)
├──┐←(大軽)丸山古墳◇29=軽之境岡宮◆4
┼┼←牟佐坐神社=軽之堺原宮◆8
┼┼┼←おかでら駅
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼↑檜前川

【鉄道駅名】[→]
《近鉄》

○橿原神宮前駅

橿原神宮西口駅

坊城駅

浮孔駅

高田市駅

尺土駅─○近鉄新庄駅─○忍海駅─●近鉄御所駅

磐城駅


《JR》

高田駅

大和新庄駅

御所駅

玉手駅

掖上駅

吉野口駅


   表紙>
 (C) 2018 RandDManagement.com