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■■■ 古代の都 [2018.10.6] ■■■
[5] 葛城掖上宮

5代 御真津日子訶恵志泥命孝昭天皇の宮は御所の葛城掖上宮。
御陵は御所の掖上博多山上。93歳崩御である。

天皇┬余曽多本毘売命(尾張連先祖 奧津余曽の妹)*
┼┼├─天押帯日子命(祖:春日臣, 大宅臣, 粟田臣, 小野臣,
┼┼│  柿本臣、壹比韋臣, 大坂臣, 阿那臣, 多紀臣, 羽栗臣, 知多臣,
┼┼│  牟邪臣, 都怒山臣, 伊勢 飯高君, 壹師君, 近淡海国造)
┼┼└─大倭帯日子国押人命⇒皇位継承[6]
*:尾張連が愛知を意味している訳がなく、葛城地区の端、高終タカオハリを指すらしい。
尾張連が歌二首[「万葉集」巻八#1421/1422]
 春山の 岬の撓りに 春菜摘む 妹が白紐 見らくしよしも
 打ち靡く 春来たるらし 山の際の 遠き木末の 咲きゆく見れば


臣や君が関連する国には、大和, 山城, 備後, 丹波, 山城, 近江/淡海, 尾張, 伊勢, 上総が含まれていそう。諸国の勢力を子孫化したことを意味していそう。その弟もいかにも輝かしい事績がありそうな名前だ。
それに比べると父の今上天皇の名前は弱々しい印象。御子2人に競わせるようにしていただけに映ったのかも。換言すれば、新たな船出というか、征服の動きを始めた天皇とされているのでは。

宮も御陵も、葛城山東麓に存在。この辺りを見ると、宮山古墳は前方後円墳だが、その近隣のネコ古墳は方墳だし、みやす塚古墳は円墳。(「葛城南部の遺跡-奈良県」奈良県文化財ウォーキングマップ(2)2009年)
古墳時代の初期、葛城地域では規格が統一化されずに、数種類の祭祀方式が併存していたと考えるのが自然。このことは葛城勢力とは部族連合と見なすのが自然だ。
注目すべきは、御陵が、山麓、台地、平野ではなく、"山上"に造成されている点。いかにも独自方式。しかし、盤座信仰を考えると、それが古墳の前駆様式かも知れない。

この地にも国見山がある。地形的には巨勢山に連なる低山であり、そこから眺める風景が魅力的であり、山上の霊となって国を見守るという信仰がありそう。
右の一首は、坂門人足。[「万葉集」巻一#54]
 巨勢山の 列列 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
(「万葉集」は「古事記」同様に国定の書ではない。)
倭国の原点的地としての自負があるのは間違いなさそう。

↓R24

 ←JR和歌山線ごせ駅

↓葛城川

└──────○─ ←たまで駅
└──┐
┼┼┼┼←玉手丘上陵◇6
←掖上博多山上陵◇5
┼┼┼┼←葛城掖上宮◆5
┼┼←今出 池之内
←葛城山
┼┼←小碓命(倭建命)陵
┼┼┼┼┼←国見山
┼┼←宮山古墳=葛城室之秋津嶋宮◆6
─┤∨∨∨∨∨][∨∨∨←大口峠
←巨勢山

←金剛山

【鉄道駅名】[→]

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