[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.10.9] ■■■ [8] 軽之堺原宮 8代 大倭根子日子国玖琉命孝元天皇の宮は橿原の軽之堺原宮。 御陵は橿原の剣池之中岡上。57歳崩御である。 何故か、初代が選んだ畝傍山の近傍に戻ってきた。山麓ではないが、東南に位置する"軽"の地である。 天皇┬内色許売命(穂積臣ら祖 内色許男命の妹) ┼┼├─大毘古命┬ n.a. ┼┼│┼┼┼┼┼└─建沼河別命(祖:阿倍臣ら) ┼┼├─少名日子建猪心命 ┼┼└─若倭根子日子大毘毘命⇒皇位継承[9] 天皇┬伊迦賀色許売命(内色許男命の娘) ┼┼└─比古布都押之信命(祖:膳臣) ┼┼┼┼〃┬葛城之高千那毘売(尾張連ら祖 意富那毘の妹) ┼┼┼┼┼└─味師内宿祢(祖:山代内臣) ┼┼┼┼〃┬山下影日売(木国造の祖 宇豆比古の妹) ┼┼┼┼┼└─建内宿祢 天皇┬波邇夜須毘売(河内 青玉の娘) ┼┼└─建波邇夜須毘古命 ここでの記述のハイライトは建内宿祢勢力についての記載。天皇直下で全国統治を支えたことがよくわかる。 この「宿祢」だが、天皇の名称にも根子が使われており、大根や少根という用法があり、"ネ"は軍事力発揮能力がある"将軍"という意味らしい。"建"は猛々しいイメージを与えるから、この時代はかなり荒れたのかも知れぬ。 軽の地は地理的に要衝であり、ソコを押さえて交易の中心部でにさせ、全国制覇を完成させようと図ったのであろう。 御陵も宮近辺で、剣池に浮かぶ島状の岡の上。よく目にする大型前方後円墳は、半ば池のような環濠に囲まれているのでそれが基本形と思ってしまうが、初期の墳墓は丘陵的な場所に造られ、その元で祭祀が執り行われるのだから池は本来的には無縁な存在な筈。 従って、御陵は水で囲った設計で造営すべしとの発想はこの御陵から始まった可能性があろう。ただ、剣池之中岡上だから、島全体が陵墓ではない。一番高い所の御陵の下に陪冢が並んだのかも知れない。 地名はいかにも伝説の地と言った印象を与えるが、古代人なら拙い場合は別だが一般名称を避けるもの。後に蓮池として親しまれたようだから、古代の息吹を感じさせる地であったことは間違いなさそうだ。・・・ ▼[「萬葉集」巻十三#3289] 御佩を 剣の池の 蓮葉に 溜まれる水の 行方無み 吾 がせし時に 逢ふべしと 卜 へる君を な寝そと 母聞こせども 我が心 清隅の池の 池の底 吾は忘れじ 直に逢ふまでに 美しさがあるが、そこには強大な武力イメージもついて回る。ココは最高指揮官が君臨する皇軍の一大集結地だったということでは。従って、この池は、洪水時の溜池的な用途も兼ねてはいるものの、人工的に護岸整備された池だったと見る方が自然だ。埋葬地は剣池と指示し、死後もそこから皇軍を見守ると遺言してもおかしくない。 ┼↓曽我川 ┼│┼┼┼↓近鉄 ┼│┼┼┼│↓R169 ┼│┼┼⊥││←衝田岡陵◇2 ┼│┼┼⊥││←畝火山北方白檮尾上陵◇1 ┼│┼▲┼○│←畝傍山 うねびごりょうまえ駅 ┼│⊥┼┼││←畝火山之真名子谷上陵◇4 ┼│┼┼⛩││←橿原神宮≒畝火之白檮原宮◆1 ┼│┼⊥┼││←畝傍山之美富登陵◇3 ┼│┼┼■││←深田池 ──○──○│←にしぐち駅 かしわらじんぐうまえ駅 ┼│┼┼┼││ ┼│┼┼┼││┼┼┼┼■⊥←剣池 剣池之中岡上◇8☚ ┼│┼┼┼││┼┼∴←軽島明宮◆15 ┼│┼┼┼││┼┼卍←法綸寺(軽寺) ┼├──┐││┼∴←(大軽)丸山古墳◇29=軽之境岡宮◆4 ┼┼┼⛩│││←牟佐坐神社=軽之堺原宮◆8☚ ┼┼┼┼│○│←おかでら駅 ┼┼┼┼│││ ┼┼┼┼│ ┼┼┼┼↑檜前川 【鉄道駅名】[→] 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |