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■■■ 古代の都 [2018.11.3] ■■■
[33] 小治田宮

「古事記」下巻の最終記載の天皇は、33代 豊御食炊屋比売命推古天皇。宮は小治田宮。
37年間統治し、628年[壬子]に崩御。
御陵は大野岡上。河内 科長大稜に遷す。
当然ながら、これ以外に何も記載されていない。

要するに、推古天皇即位(「日本書紀」では592年。)は飛鳥時代の幕開けであり、それまでの古代の歴史を紐解いてきた「古事記」の役割は終わったと言っているようなもの。換言すれば、律令制国家史が始まることになる。
それは、有能な渡来人活用が可能な統治の仕組みが生まれたということでもあろう。渡来人は仏教徒でもあるから、仏教受容の奔流が生まれることにもつながる。
長らく続いて来た遷宮の仕来たりや巨大な陵墓構築の習慣が消えていくことになる訳だ。そこらは、国史たる「日本書紀」にお任せするしかない。・・・

従って、「古事記」の編纂者にしてみれば、豊御食炊屋比売命期は"小治田宮"さえ伝えれば十分なのである。
その宮地だが、名称ママの墨書土器が出土しているから、雷丘東方遺跡であることは間違いないだろう。そこは、石舞台古墳につながる飛鳥川のほとり。南側対岸には甘樫山、北方は香久山、西方は畝傍山である。

《飛鳥川一帯》
 加夜奈留美命神社/葛神社@明日香 栢森
 飛鳥坐神社@n.a.⇒[奉遷]明日香 飛鳥 神奈備 鳥形山
 飛鳥神社@明日香 真神ヶ原⇒[奉遷(元興寺)]平城京左京四条
 天の香具山@明日香 栢森・・・伽耶式土器出土
 小墾田寺
 ∴雷丘←遠飛鳥宮◆19, 小治田宮◆33/(35,36,37)/(47,48)
 豊浦寺
 甘樫丘
 飛鳥寺
 飛鳥宮←◆34/35/37/40
 川原寺
 橘寺 ミハ山@祝戸
 嶋宮←◆40-1
 石舞台


小治田宮の状況はわからないが、律令国家として半恒久的に使えるように設計されたろうし、碁盤の目構造の都市計画も付随していたに違いない。実際、後世、遷宮あるいは宮の新築/改築にあたっては、その完成まで、仮宮として使われることも多かったようで廃宮とはされずメインテナンスされ続けていたようだ。

そんなこともあるので、飛鳥時代の宮の名前は要注意である。名前が異なっていても、宮地自体は同一地の可能性が高いのだ。(従って、以下では、同一地の宮はすべて「飛鳥宮」として表記した。)
臣下は夫々が各地区に邸宅を持っていたが、中華帝国の都に倣って碁盤の目のような大型都市に邸宅を集約するようにしたのである。飛鳥時代は、その過渡期。飛鳥宮では狭すぎるので、新たに造成だれたのが藤原京ということになろう。ただ、地勢的考慮不足で使いものにならないため、平城京を造成するしかなかったのであろう。この場合の遷都は、廃宮にして資材ともども移転したようだから、短期間のうちにすべてが跡形もなく消え去ってしまった訳である。

以下、「日本書紀」ベースで宮を暦年で並べてみた。・・・

《飛鳥の時代(仏教伝来)》
 豊浦宮@向原寺/蘇我稲目邸◆33-1
   …内陸"浦"は、穴門豊浦宮の蘇我氏的記念名。
 飛鳥小墾田宮@雷丘東方遺跡◆33-2
 飛鳥宮(岡本宮)=向原寺岡本宮◆34[舒明]-1(火災)
 田中宮=法満寺@橿原畝傍◆34-2
   …中臣鎌足系の寺。
 厩坂宮@橿原大軽◆34-3(伊予行幸後仮宮)
   …百済献上馬飼育地。
 百済宮+百済大寺@吉備池廃寺◆34-4
   …場所的に名称が不可解。王族滞在か。
 飛鳥小墾田宮◆35-1[皇極]
 飛鳥宮(板蓋宮)◆35-2
   …蘇我入鹿殺害現場。
   …その後、"大化の改新"。
 飛鳥小墾田宮◆36-1[孝徳]
 難波 長柄豊碕宮@摂津◆36-2
 飛鳥宮(板蓋宮):火災◆37-1[斉明:皇極重祚]
 飛鳥川原宮◆37-2
 飛鳥宮(岡本宮)◆37-3
 朝倉橘広庭宮@(福岡)朝倉山田◆37-4
   …"白村江"で唐=新羅連合軍に敗退
    百済滅亡。
 近江大津宮@大津錦織◆38[天智]/39[弘文(大友皇子)]
 嶋宮/蘇我馬子邸宅跡@明日香島ノ庄◆40-1[天武]
 飛鳥宮(岡本宮)◆40-2
 飛鳥宮(浄御原宮)◆40-3/41-1[持統]
   …「古事記」編纂
《奈良の時代-藤原京(白鳳)》
 藤原京@橿原高殿◆41-2/42[文武]/43-1[元明]
 平城京I◆43-2/44[元正]/45-1[聖武]
 恭仁京@山背相楽/木津川加茂◆45-2
 紫香楽宮@甲賀信楽宮◆45-3
 難波宮@難波長柄豊碕宮跡地◆36-2/45-4
《奈良の時代-平城京(天平)》
 平城京II◆45-5/46[孝謙]/47[淳仁]/48[称徳]/49[光仁]
  [行宮]小墾田宮=小治田宮=雷丘東方遺跡◆47[淳仁]/48[称徳]

御陵は太子町辺り。そこは二上山越えの、「竹内街道(R166)」の通り道である。この天皇期に標準的な通行路として完成されたと見てよいだろう。(尚、山田高塚古墳への改装前は植山古墳[長方:40x27m]@橿原とされている。"大野岡の上"御陵である。)

難波の港(堺) 〜 三国ケ丘駅 〜 ]西除川[ 〜 ]東除川[ 〜
古市駅(-駒ヶ谷駅-上ノ太子駅) 〜 二上山竹内峠 〜
(当麻寺南方)〜磐城駅(-尺士駅-高田市駅) 〜
金橋駅南 〜 ]曽我川[ 〜 ]八木西口駅畝傍御陵前駅中間[ 〜 ]飛鳥川[ 〜

  《磯長谷古墳群@南河内 太子》
↓上ノ太子駅
└──┐┼┼┼┼┌┘
─○─────┘近鉄南大阪線
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┼┼┼┼└┐
┼┼┼┼┼└┐R166:竹内街道
┼┼┼┼└┐ ←山田上ノ山古墳(円)◇36
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┼┼┼┼┼┼┼┼ ←小野妹子墓
┼┼┼┼┼┼↑山田高塚古墳(方)=科長大稜◇33
┼┼┼┼↑春日向山古墳(方)=科長中稜◇31
↑太子西山古墳(前方後円)=川内科長◇30
【鉄道駅名】[→]

   表紙>
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