[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.16] ■■■ 摂津〜河内〜和泉時代 何と言っても、この時代のハイライトは墳長525mと425mの超巨大古墳。前者は海側から直接見える百舌鳥地区で後者は奈良盆地を出た大和川下流域の古市地区。 百舌鳥は高台と言っても海抜20m程度だろうが、丘の形状であり、石板で被っていれば淡路あたりから近付けばすぐに目に入る筈であるから、その効果を狙ったのだろう。一方、古市は海抜30m〜50m程度で、河内潟の河口に入ると威圧感を覚えたかも知れぬ。 日本最大の古墳を造成することで、為政者の偉大さを伝える意味も大きかったと見てよいだろう。「古事記」の記述からすれば、そこには儒教的なセンスが入れ込まれており、日本流の天子として威厳を示す必要があったということだろう。 一方、若干小さいといっても、比類なき大きさの古墳の方の被葬者は神憑り的な地位に昇りつめることになる。日本的な戦争の神として信仰対象になっていく。 と言っても、両者とも、古墳そのものへの信仰には結びつかなかったようである。 ●古市 誉田御廟山425m▲▲▲=恵賀之裳伏岡◇15🈭 河内大塚山335m▲▲▲🈝 仲津山286m▲▲🈭 岡見三才238m▲△=河内惠賀之長江陵◇14🈝/🈭 鉢塚60m 市野山227m▲△=河内之惠賀長枝陵◇19🈭 古市墓山224m▲△🈭 津堂城山202m▲△🈜 軽里大塚/前の山200m▲=白鳥陵◇🈭 野中宮山154m△🈭 古室山150m△🈭 野中ボケ山122m 高屋築山122m=河内古市高屋村陵◇27 白髪山115m 小白髪山46m 大鳥塚110m 二ツ塚110m はざみ山103m 峯ヶ塚96m 島泉丸山古墳75m=河内多治比高鸇◇21 ●百舌鳥 大仙陵525m▲▲▲=毛受耳原陵◇16🈭 上石津ミサンザイ/百舌鳥陵山365m▲▲▲=毛受陵◇17🈭 土師ニサンザイ288m▲▲173m△🈭 御廟山203m▲🈭 百舌鳥大塚山168m△173m△🈭 乳岡155m🈜 田出井山148m=毛受野陵◇18🈭 いたすけ146m🈭 長塚106m 永山100m 丸保山87m 収塚61m 文珠塚58m 〇羽曳野 御旅山44m 〇柏原国分市場 松岳山130m🈜 〇住吉 帝塚山/伝大伴金村墓88m ●岸和田 摩湯山200m🈜 ●泉南岬 西陵200m▲173m△🈭 淡輪ニサンザイ173m△🈭 巨大古墳の時代は、瀬戸海を意識して、奈良盆地外の御陵ということだが、すでに奈良盆地内にも墓所地があるので、そこも候補地としていつもあがっていたに違いない。 一方、政治的には、奈良盆地内豪族と地方豪族の二重構造が壊れかねないので、盆地内は葛城地区の豪族が中心となって采配を振るう体制を敷いたようである。 その結果、佐紀以外にも、盆地内の大型古墳造成が行われることになる。もちろん、過去の地は満杯で余地がなく、葛城地区勢力主導の地となる。 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |