[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.17] ■■■ 初瀬川時代 皇位継承闘争も頂点に達し、男系血筋が絶えてしまいかねないところまで来た時代のこと。 今迄とは、レベルが違う壮絶なものになったこということだが、それは奈良盆地内と外の二重構造が崩れたからだろう。 奈良盆地内豪族だけで政権のあり方が決まっていたため、地方勢力はダイレクトに政権抗争に参加していなかったが、交通が整備されたため、直接的に中央に関与するようになってきたため、抗争が一気に熾烈化したということではなかろうか。 政権安定には、ライバルの芽を早くから摘んでおく以外にありえなくなったのだと思われる。 地方勢力も侮れない力を発揮するようになってきたのだと思われる。河内から瀬戸海という「鐵の道」だけでなく、他のルートも活発になったし、陸路も東海道や東山道が整備され、奈良盆地経由の意味も薄くなれば、政体全般が動揺をきたすことになる。 地方豪族にしても、それなりの力を持っていた訳で、中央政権がどのように統治を進めるか、見直しが必要になったに違いない。 《日本海側》 ●丹後半島 網野銚子山201m▲🈭 神明山200m▲🈜 蛭子山1号145m△🈜 白米山90m ○若狭 上ノ塚@脇袋100m🈭 西塚@脇袋74m 中塚@脇袋70m 下船塚@日笠85m🈡 上船塚@日笠70m🈡 ○福井平野-九頭竜川 六呂瀬山1号@坂井140m🈜 手繰ヶ城山@上記対岸129m ○能美寺井 秋常山1号140m🈜 《山陰方向入口地域》 ○篠山 雲部車塚140m△🈭 〇亀岡 千歳車塚82m 〇綾部 聖塚,菖蒲塚54m,32m[方] 《紀伊》 ●和歌山 車駕之古址86m 大日山35号86m 井辺八幡山70m 大谷67m 将軍塚42m 何と言っても、この時代のハイライトは墳長525mと425mの超巨大古墳。前者は海側から直接見える百舌鳥地区で後者は奈良盆地を出た大和川下流域の古市地区。 百舌鳥は高台と言っても海抜20m程度だろうが、丘の形状であり、石板で被っていれば淡路あたりから近付けばすぐに目に入る筈であるから、その効果を狙ったのだろう。一方、古市は海抜30m〜50m程度で、河内潟の河口に入ると威圧感を覚えたかも知れぬ。 日本最大の古墳を造成することで、為政者の偉大さを伝える意味も大きかったと見てよいだろう。「古事記」の記述からすれば、そこには儒教的なセンスが入れ込まれており、日本流の天子として威厳を示す必要があったということだろう。 一方、若干小さいといっても、比類なき大きさの古墳の方の被葬者は神憑り的な地位に昇りつめることになる。日本的な戦争の神として信仰対象になっていく。 と言っても、両者とも、古墳そのものへの信仰には結びつかなかったようである。 巨大古墳の時代は、瀬戸海を意識して、奈良盆地外の御陵ということだが、すでに奈良盆地内にも墓所地があるので、そこも候補地としていつもあがっていたに違いない。 一方、政治的には、奈良盆地内豪族と地方豪族の二重構造が壊れかねないので、盆地内は葛城地区の豪族が中心となって采配を振るう体制を敷いたようである。 その結果、佐紀以外にも、盆地内の大型古墳造成が行われることになる。もちろん、過去の地は満杯で余地がなく、葛城地区勢力主導の地となる。 奈良盆地西側山麓から一歩内側には、広大な耕地開発の余地が残っていたことも大きい。 それが馬見と御所だ。遅くなってから前方後円墳を造成し始めたことになる。ここらでは、前期にはほとんど見かけないのだ。 初代からの"葛城〜金剛〜巨勢時代"とは、大和川の南支流の一番西側の葛下川沿いの地域を指し、ここらの古代古墳は言うまでもないが前方後円墳ではない。小さな古墳であり、場所は丘陵の谷間であり、自然水利が有効な地での生活だったと見てよいだろう。 【奈良盆地 現代の地名】 ┌--------------↑木津川(淀川水系) │生駒 奈良 │ 大和郡山 │平群 斑鳩 安堵 三宅 │三郷 │王子 河合 │ 大和高田 │ 天理 │香芝 上牧 │ 広陵 │葛城* 橿原 桜井 宇陀 *(新庄/│当麻) │ 明日香 │御所 高取 └--------------↓吉野 ●馬見@広陵〜大和高田 (川合)大塚山215m▲△🈭 築山210m▲🈭 巣山204m▲🈜 新木山200m▲🈭 島の山190m△🈜 新山137m[前方後方]🈜 乙女山130m[帆立貝] 味田宝塚112m 狐井城山109m ナガレ山105m 牧野50m[円]…前方後円墳消滅の頃 〇香芝 狐井城山140m🈝 (観音山/さね山)…銅鐸出土 〇葛城 新庄二塚60m 平林@当麻兵家55m🈡 ●御所 室大墓/宮山240m▲△🈭 掖上鑵子塚150m△🈭 條ウル神100m 巨勢山[群:700] ネコ塚[円]70m みやす塚[円]50m 水泥[円] 鴨都波[方]20m 三室博多山[自然丘]=掖上博多山上陵◇5 玉手宮山=玉手丘上陵[円丘]◇6 (楢原遺跡)=交流拠点 (名柄遺跡)…銅鐸出土 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |