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■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.18] ■■■
桜井時代

「古事記」最後の記載部分の《桜井時代》は33代から始まる"前"《飛鳥時代》そのもの。

すでに古代の墳墓形式と見なされていた円墳と方墳が復活してきた頃である。前方後円墳文化を払拭する動きが勃興してきたのである。しかし、慣習はそう簡単に捨てられなかいから、併存状況に入ったと言ってよかろう。
すでに、奈良盆地内での大型開発余地はなくなっており、大型前方後円墳の実利は全くなくなってしまった。にもかかわらず続行すれば、御陵造成の土木工事の大きな負担だけとなるから、当然の流れ。
「古事記」が33代を末尾にしたのは、最終的な断が下されたことを示唆したかったからだろう。
「古墳時代」として眺めると、考古学的には切れ目無しに続いていることになるが、33代"推古朝"からは律令時代である、この時代区分は避けたい。
ちなみに、《桜井時代》に造成された前方後円墳は、脱埴輪が図られる等の動きがあったのは間違いなく、遺跡外観は同じでも、当時のイメージは従来の伝統を破っているように映った可能性があろう。

「古事記」後の34代〜42代は「日本書紀」に頼るしかないが、比定御陵を26代から並べてみると以下のようになる。まさに、前方後円墳終末期🈡そのもの。
「古事記」後でなんといっても目立つのが、皇族の八角墳🈗。律令国家制度がほぼ完成してから始まった新規格と言えよう。
御陵構築部隊はそのまま存在しているのだから、仏教的薄葬へと一気に進むよりは、律令国家の強化に活用した方が好都合ということだろう。隋(581-618年)の大中華帝国の繁栄を知ってしまったのだから、中国思想の導入は当然視されたということか。

ともあれ、ヒエラルキーの厳格化が図られる訳で、地位毎に墳墓の大きさと形状(八角, 方, 円)について、文書化された決まりが作られたであろう。ルール通りには行かなかったようだが。

そう考えると、磯長谷古墳群の方形御陵63mに対抗するかのような臣の方形墳墓の存在は、政権内部での豪族の力が強くなっていることを如実に示していると見ることができよう。これでは権威を失いかねないから、それを避けるための八角形御陵を導入したとも言えよう。

【追記】今の教科書はどうなっているか知らないが、小生の記憶では「国家」とは律令国家以後の政治形態を意味するような記載だったような記憶がある。もちろん、さっぱり意味がわからなかった。今、「古事記」を読んでいて、さらにその感が強まる。明らかに、日本の国家形成は律令国家以前の相当昔のこと。前方後円墳にしてから、共同体形成のための建造物以外のなにものでもない。それは、その地を支配していた被葬者への尊崇のための墓所という位置付けの訳がないのである。大陸と違い、被葬者を特定できるものは、墓碑どころか、何一つ埋葬しないのだから。

【淀川流域】
○高槻郡家/摂津冨田
  今城塚190m=三島之藍御陵◇26🈝
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【奈良盆地外 大和川流域 古市古墳群内】
  高屋築山122m=河内古市高屋村陵◇27🈝
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【奈良盆地内】
《中央》
●橿原地区
  見瀬丸山/大軽丸山318m▲▲(◇29)🈡
  鳥屋見三才130m…「古事記」には"◇28"は未記載。🈡
  菖蒲池30m[方]
  植山40m[長方]
  桝山@貝吹山北麓鳥屋85m[方]
  中山塚1号=剣池之中岡上28m◇8…前方後円墳だが比定地として難あり。
  〃2,3号[円]…すべて大規模改修されており1〜3号が一体だった可能性も。
《奈良盆地西出入口 斑鳩》
●生駒地区
  烏土塚@平群61m🈡
  藤ノ木48m[円]
《初瀬川長谷域東西流以南》
〇忍坂
  段ノ塚105m[八角]◇34🈗
  ムネサカ1号50m[円]
●鳥見山
  赤坂天王山50m[方](◇32)
  (安倍)文殊院西30m[円]
【奈良盆地内 南南西奥】
●明日香
  (平田)梅山140m…明日香地域唯一の前方後円墳🈡
   鬼の俎・鬼の雪隠
  石舞台50m[方]…蘇我馬子墓
  都塚42m[階段ピラミッド型方]
  高松塚23m[二段円]
  キトラ9m[円]
  野口王墓40m[八角]◇40(大海人皇子/天武天皇),41(皇后/持統天皇)🈗
  中尾山[八角]◇42(持統太上天皇下政務)🈗
  牽牛子塚[八角]🈗
  岩屋山[八角]🈗
  束明神[八角]🈗
  マルコ山[六角]
  越智崗上陵@高取車木[円]◇35/37
【南河内】
《奈良盆地西出入口 太子》
●磯長谷古墳群
  太子西山古墳93m=川内科長◇30🈡
  春日向山古墳63m[方]=科長中稜◇31
  唐臼山古墳(石室のみ残存)=小野妹子墓
  山田高塚古墳63m[方]=科長大稜◇33
  叡福寺北古墳55m[円]…(聖徳太子)
  山田上ノ山古墳30m[円]◇36
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【京都@山城
○嵯峨野台地
  南縁塚@太秦75m🈡
○山科
  御廟野70m[八角]◇38(中大兄皇子/天智天皇:672年崩御)🈗
【大津】
  平松亀山20m[円]=長等山前陵◇39(大友皇子:672年壬申の乱敗北)

(ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。
   表紙>
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