[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.20] ■■■ [03] 安芸国多祁理宮 多祁理宮の比定地は1つしかなく、多家神社@安芸府中。 多家はどう訓読しようが、多祁理[タケリ]とは読みが全く違うが、多祁理宮跡に1873年に開祀したとされた神社名とされている。但し、神社はその後消滅し、その場所は不明。実に胡散臭い話で、現在の社殿にしても、後世に国府の地"府中"内で選定した地(松崎八幡宮と総社の中間点)に創設したもの。 常識的には、広島湾に入るなら厳島あるいは対岸に腰を落ち着けそうなものだが、それを示唆する伝承は皆無なので、そうなったのかも。その一方で、安芸の内陸部には関連伝承が多いとか。東征にはそぐわないから、別な話ではなかろうか。 尚、安芸国総鎮守は速谷神社(伊都岐島神)だが、それは"府中"の地にはなく、佐伯(廿日市)に。 マ、よくわからないのである。 だが、「古事記」のこの部分の記述をどう読むかは結構重要。 瀬戸海勢力連合を樹立する旅でもあろうから、安芸は拠点として確保しなければならぬ地だからである。 吉備-讃岐間を押さえると同時に安芸-伊予間あるいは備後-伊予間を支配しなければ実効力不足というか、瀬戸海覇権どころの話ではないからだ。 そう考えると、伊予大三島(大山祇神社@宮浦)が登場しておかしくないが、そうはならないのである。このことは、すでに伊予との関係は政治的に良好で安定していたことになろう。 そうだとすれば、宮の比定地は速谷神社辺りと考えるべきだろう。今治に野間神社(飽速玉命=速水神社御祭神, 若弥尾命=阿岐の国造の祖)があり、安芸の青陵が伊予まで勢力を張っていたのは明らかだからだ。 従って、東征に当たって、"連合勢力"として逗留したと解釈するのが自然。 そう語ると、尾道-今治の現代の橋梁ルートで考えがちだが、古代の海ルートは今治ではなく松山と考えた方がよかろう。・・・ 松山平野の中央部に天山があり、その傍らの天山神社北古墳から、銅鏡・鉄刀・子持付器台が出土している。後世編纂の「伊予国風土記」逸文の「伊予の郡。郡家より東北のかたに天山あり、天山と名づくる由は、倭に天の加具山あり。天より天降し時に、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端は此の土に天降りき。よりて天山といふ、本なり。その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり。」に符合する訳である。 実際、弥生時代の大集落跡の文京遺跡@愛媛大学城北キャンパスからも漢鏡片や鋳造鉄斧などの鉄器と吉備産らしき搬入土器が出土しているそうで、瀬戸海大連合の萌芽はすでにできていたのである。 東征はその確認というか、大連合体制樹立の旅と見た方がよさそう。 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |