[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.21] ■■■ [02] 筑紫国岡田宮 筑紫国岡田宮の比定地は北九州 八幡西 黒崎の岡田神社(崗/遠賀土着の熊族の祖先神)。 異論はないようだ。 たとえ岡田神社にドンピシャでなくとも、この辺りに違いないということだろう。遠賀川河口辺りが古代海路の要だったからである。 ここは、弥生時代前期の遠賀川式土器の発祥の地でもある訳で。この土器は、西日本に広く出土し、模倣型を含めると北は津軽、南は南西諸島まで分布している。おそらく、水田稲作伝播と軌を一にすると見てよいだろう。 木製農耕具の頃だ。 「古事記」上巻の、日子番能邇邇芸の命への詔「此の豊葦原の"水"穂の国は、汝の知らさむ国ぞと言依さして賜ふ。故、命の随に天降るべし。」が成り立つ根拠でもある。 どう見ても、初代が稲作を教え広げた訳ではない。すでに、日本列島には葦原開墾の低湿地水田稲作地化した状態だったということになろう。 渡来イネは、赤米神事の存在から見て、おそらく南方渡来の陸稲、対馬経由で日本海側に広がった小規模な適地での稲作、瀬戸海の大規模開墾型の3系統がある。最後のタイプが、稲を黍@吉備や粟@阿波の地位を奪う原動力になったと思われる。 しかし、当初は、木製農具で対応していたから、田圃は低湿地に限定されていた筈。葦原とはそういう意味で捉えるべきだ。 つまり、鉄製農具の普及で生産力の飛躍的向上が見込めることは自明だったのである。 東征とは、万を持して、その時代の幕開けを図ったお話と違うか。 どうして、東征するのかと言えば、東に開墾余地が膨大な地ありと見たからとしか思えないからである。 瀬戸海交易圏を確保し、その地を知り尽くしている勢力からすれば、河内潟周辺にすでに入り込んだ勢力を巻き込んでさらに奈良盆地へと開墾を進めていく目論見は極めて魅力的に映った筈。鉄器と農業土木技術を保有している以上、絶対優位のママ入植可能だからだ。 そこで、日向勢力の下で、瀬戸内大連合海軍が組織されたのでは。 河内潟辺りの勢力も賛同し加わる見込みが外れて、その地で敗戦の憂き目をと見ることもできよう。 弥生時代は環濠集落が基本らしい。かなり大型のものが各地で見つかっている。低湿地農耕なら環濠にならざるを得ないが、実際のところは、初期を除けば戦闘上の防衛施設だったようだ。そのため、戦乱で優位に立てる山城的集落が多くなっていったと見られている。奈良盆地内もそのような状況で、細々とした部族が乱立し、始終戦乱だったと思われる。 稲作は生産余力が大きいため、土地や水利権を巡る戦乱蔓延は避けられないということでもある。 そんな時代の東征であり、況を一変させた画期的なものだったからこそ伝承譚が残っていると見てよかろう。 「古事記」では、東征での戦乱は、河内に入ってからのこと。それ以前については戦乱発生を示唆する記載は皆無。これは、弥生型戦乱を終焉させたことを語っていると見ることもできそう。 と言うのは、鉄製農具や鉄製武器が入手できない勢力は没落するのはわかりきったことだから。鉄の道である瀬戸海航路を支配した連合軍に敵対すれば、鉄交易が不可能になることは自明。どの勢力も、その軍門に下る以外に手がなかろう。 もっとも、日本海側は該当しないが、瀬戸海ルートの交易量が桁違いに大きくなれば、抵抗しても徒労に終わるだけ。 北九州勢力は引き続き日本海ルートを支配していそうだが、瀬戸海勢力に黙々と従う以外に生き残りの手はなかったろう。遠賀川勢力は早くからその線で動いて生き残りを図ったと思われる。 北九州からは、中国製の鉄鏡が出土するから、鉄の交易ルートを押さえていた筈だが、瀬戸海地区を軽視してしまったので、没落の道を歩んだことになる。 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |