[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.22] ■■■ [01] 豊国宇沙足一騰宮 足一騰宮という名称から見て、特殊な建築様式だったのだろう。 対になる柱に梁を渡して屋根を架ける方式ではなく、一本柱を並べ壁無しで庇をつける建物かも知れぬし、心柱を持つ塔の可能性もある。日本的ではないが、茸的構造で、梯子で昇る貴人座だけの建造物も有りえよう。全員がその前庭で平伏し、宴会が始まることになる。 比定地は宇佐 安心院の妻垣神社とされるようだが、陸にかなり入った山麓にある磐座の地。いかにも、小さな盆地の土着部族の祭祀場的。一方、宇佐神宮の地も、洪水を避けるためか、海から陸路でかなり上がる必要があり、違和感がある。 土着の宇沙都比古と宇沙都比売が大御饗で歓迎したのだから、船団が見える地が選ばれそうなものだが。 マ、どこでもよいのだが、要は、とんでもない激流の海峡を通ってやって来た一行を称えたのである。このことは、もともと海峡を挟んで日向と宇沙は交流があったことを意味していよう。 言うまでもないが、日向灘は海洋的には流れの激しい黒潮の太平洋系。そこから瀬戸海に入るには、北行し佐賀関と佐田岬の豊予海峡(14Km)を通過する訳だが、海峡横断は難しかろう。その手前(高島,無垢島近辺)から豊後水道を横断し宇和海側(日振島,戸島)に入っても、結局は長く飛出た岬回りがあるので瀬戸海航路上の魅力は薄い。 結局、潮に乗って周防灘向かい側の国東半島辺りの湊に泊まるのが一番。ここは黒曜石産地の姫島があり、海上ルートが超古代から完備しており、目視可能な周防半島への航路があった筈。九州発瀬戸海航海の出発点としては絶好の地。 従って、瀬戸海連合勢力樹立に当たっては宇沙勢力は不可欠なのは自明。 だからこそ、後の、前方後円墳葬祀開始に当たって、この地にも造成されたと考えられる。九州最古である。 ●川部-高森(宇佐風土記の丘) 赤塚58m (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |