[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.26] ■■■ [00] 高千穂宮(4:鉄の道) 黒潮勢力が南九州に上陸するとしたら、有明海にまで回る必然性は薄いと書いたばかりで、"しかしながら"という文章を繋げるのは抵抗感があるが、先ずは、そこから。 吉野ヶ里もそうだが、有明海を抱える肥後からは鉄器が出土する。。江田船山古墳ももちろんこの地域。方保田東原@菊池川流域は砂鉄地帯でもあり、吉備よりの搬入土器が出土したりする。鉄に注目すれば、有明海⇒阿蘇⇒高千穂という流れもあっておかしくなかろう。 以上、時間軸を全く無視した書き方ではあるが、鉄に注目する必要があるゾということ。 そもそも出雲の国譲り譚や、その後の南九州への降臨譚から続く東征(瀬戸海連合樹立)譚とは鉄を巡る大きな動きを示していると言えなくもない。 前方後円墳登場にしても、鉄の交易で連結を果たしたヤマト国家という視点で見ることもできるかも知れぬ。吉備勢力が力を持っているのも、砂鉄鉱脈/鉄鉱石を持っていたからということで。ただ、常に注目を浴びている三角縁神獣鏡と製鉄とは関連していないようだ。弥生時代の鍛冶の遺跡から出土するのは他の中国鏡らしい。 多少は、整理した書き方をしておくべきか。 瀬戸海連合樹立で鐵の道を取り仕切ることができたと書いたが、それは朝鮮半島(気候的に農業基盤脆弱で、鉄だけで政権を維持していた新羅地域)からの"インゴット⇒鍛鉄"の話。こちらは武器や切削器具用。吉備の製鉄は農具や土木用具の生活基盤を支える方だが、両者が一体化したので覇権を握れたと見ることもできる訳だ。 ここらの歴史観を整えておきたいものの、いかんせん情報が少なすぎ。 例えば、こういうこと。・・・奈良盆地東側、石上の北方にある東大寺古墳から184年製が出土しており、銘に"百煉"とあるらしいから、おそらく高度な製造技術で大陸で製作された祭祀用武具だが、どのような鉄かの情報が見つからない。 もともと、弥生時代の鉄製刀はそれなりの数の出土品があるが、どのような用途なのだろう。実用的な武器なのか祭祀用か、漢代のような文具的なものか、想像もつかぬ。 吉野ヶ里遺跡からは、結構な量の鉄製品が見つかっているが、どのように使われていたのだろうか。末盧国と伊都国境界、弥生時代早期かそれ以前とも目される石崎・曲り田遺跡@糸島では石器と鉄器が同居しているようだ。併存させる意味があるのか、時期がズレているのかさえわからない。 ただ、鉄こそ、日本の古代の流れを読む上で重要なのは自明である。 考古学が示す土器の使用開始年代を見てわかるように、日本人は豊饒の生活を古くから送っていたに違いないし、稲作も縄文期にすでに入っていたと考えるべきである。ただモノカルチャー的な農法ではなかった。その状況を考えると、、アプリオリに先進文化たる金属器はとんでもなく遅れてから、大陸から渡来したと見てよいか注意を払う必要があろう。 (参考) 真弓常忠:「古代の鉄と神々」増補第3版 学生社, 2012年 藤尾慎一郎:「弥生鉄史観の見直し」国立歴史民俗博物館研究報告185, 2014年 言うまでもないが、「古事記」は、その点についても、十分すぎる程の、示唆を与えてくれているが、上記のような状況を考えると、考古学的な裏付けを示すのは多分難しかろう。 その辺りを書いておこう。 (「古事記」を読むから、そう確信するのだが、ここらはセンスの問題である。) 須佐之男命の出雲国肥河での八俣の遠呂智退治は、砂鉄産地の氾濫する河川域制圧を示唆していると見ることができるし、実際、弥生時代の巨大な(156ha)妻木晩田遺跡@米子から鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等の鉄器が出土している。 (青銅器が鉄器と並行して生産されているから、鉄生産は銅製錬に絡んだ製造プロセスだった可能性もあろう。その青銅器だが、武具はせいぜいが突き刺す棒程度のモノでしかなかろう。柔軟性がなくすぐに折れるし、刃の部分は切れ味を欠く。しかし、金色に輝くものを作ることはできる。鉄器はせいぜいが同程度の品質のモノだったろうから、もっぱら農具。すぐに錆びるから祭器には利用しなかった筈。そんな状況で、建御雷之男神が鋼のような刀を保有していることを示し仰天させたようだ。そして、出雲勢力に降伏を迫ったのである。 古代の金属精錬は、品質が安定した鉱石調達と、その特徴に見合った技術を所有する必要があるが、大量生産上のボトルネックは膨大な量の燃料木材運搬。出雲はその点で大いに利があったが時代は一歩先に進んでしまったことになる。 出雲が冥界の地とされているのも、鉄と縁なきことではないかも。砂鉄はすぐに取り尽くされるから、山を崩して川に流したに違いなく、大量生産を続ければ鉱滓によって生物が全く棲めない地が出現したろう。日本のような栄養分リッチな土に豊富な水があり、温暖な環境だと、砂地でさえ生物が棲める。命の欠片も見つからない不毛な地は火山地域の一部くらいしか無く、その存在は目立ったに違いないのである。 このことは、鉄を必要としていたのなら、すでに縄文時代に、ボール炉型(冷送風掘穴式)製鉄技術が普及していた可能性さえある。鉱泉や低湿地に生ずる純度が5割程度の低品質な褐鉄鉱でも、ポーラスだから、鉄の生産は比較的容易だったと見ればだが。銅と同レベルの温度で生産できるので好都合ということでもある。 (褐鉄鉱の存在が知られていたことは、弥生時代の唐古・鍵遺跡@奈良盆地から、中空の層状渇鉄鉱の塊[翡翠勾玉容器]が出土しているからはっきりしている。) 但し、あくまでも作れるのは鋳鉄だから、農具用として、木製や石器より格段に力を発揮できるにすぎない。。(炭素や不純物含有量が多いから、ココからの鍛造で、切削工具や武器を作成するのは極めて難しい筈。) 従って、鍛造可能な鉄材はどうしてもインゴット(板)で輸入するしかなかったと思われる。後に朝鮮半島出兵があるが、新羅地区を制覇し、鉄製武器製造技術を得たかった故と見ることもできよう。半島南西端の百済地区は日本と同等な豊饒の地だが、新羅地区には鉄以外の経済的な魅力は薄いからだ。 と言っても、いかに脆い鉄であっても、扇状地での開墾を進める上では、鋳造製品の力は偉大。 わざわざ南九州山岳部に入ったのは、鉄生産の可能性を探るためと見るしかなかろう。(実際、阿蘇黄土とは褐鉄鉱である。) ともあれ、木花之佐久夜毘売が火が盛んに燃えていたとき、生まれた御子は火照命で"此者隼人阿多君之祖"なのだ。次子が火須勢理命で、末子が火遠理命/天津日高日子穂穂手見命。 従って、降臨の地は常識的に考えて隼人の地である南九州しかあり得まい。その隼人だが、九州南海の薩摩 阿多を拠点とする海人勢力だったのは間違いない。・・・ 其東海嶼中又有 邪古[屋久島]、波邪[隼人]、多尼[種子島] 三小王, [「新唐書」卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 倭・日本] 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |