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■■■ 古代の都 [2018.11.28] ■■■
[番外] 珠玉の「古事記」(2:高天原の実在性)

天はテンでなくアマという点は極めて重要である。
「古事記」の天とは、海原から見た地であることを意味していると考えることができるからだ。

そもそも、高天原ほど不思議な情景は滅多になかろう。地上の現実世界と違う点を探すのが難しいからだ。田圃はあるし、機織り場もあり、生活風景はなんら変わらぬ。登場する神々も、地上の神との違いゼロの風情だし、高天原出自でも死ぬのだから。

所謂、天国のコンセプトや、天帝の御所とは全く異なる地である。
儒教学者 新井白石が常陸国に実在したと主張したのも故なきことではなかろう。

高天原とは、天上-地上-冥界という垂直構造で表現されてはいないのである。高天原は神の居ます所であるから、空の上又上の世界であるとの思い込みがあるとそんな感覚は湧かないから納得できないかも知れぬが。
(山登り好きであれば、峰に降臨する情景を、遥か天上から"日本の神が来たれり"と描いたとは考えない。日本の峰とは眼下に一面の雲海が広がるからこそ、そう呼ばれるからだ。ご来光に感激するタイプの人にとっては常識である。水平線の東の遥かかなたから射し始める朝一番の光は、順に雲上を輝かしながら遣って来て、やがて空が明るくなっていくのである。神の来訪感覚を味わえるかは人による。)
皇国史観の核を成したとされる本居宣長的な"天上"の見方は実はそぐわない。
言うまでもないが、同様に、潜在的には宗教思想から来ている、詩的想像の産物としての天上世界、といった津田左右吉的な主張も全く当てはまらない。

つまり、高天原とは、大海原を航海してきた人々の"真実の"伝承物語に基づく地。古代の黒潮海人が仮想の天上世界を考えることなど有りえない。
あくまでも水平目線であり、日の出日の入りの東西方向を見続ける人々にとって、神が住む地が高天原なのである。
(ついでながら、山信仰も必ずついてくる。黒潮遠洋航海では山こそが一番の目印だからだ。九州南部なら、開聞岳なのは自明。)

このことは、儒教やキリスト教より古層の精神に基づいた話の可能性が高いということ。
先ずは、東の果てにユートピアありきなのだ。それは想像の産物ではない。バベルの塔とは違い、東へ東へと進むことができるからだ。
人類史で言えば、アフリカからユーラシアの東を方を目指す旅そのもの。高天原は、その時代の精神から生まれた伝承であるのではないか。

「古事記」が指摘しているのは、陸上の流れとは別に、海上の流れがあるという点だと思う。

陸上勢力にとっては、東の端とは実は辺境そのもの。海は世界の果てでしかない。
それに対して、東を目指した海人はもっぱら大陸沿岸と島伝いの旅であり、東端の地とは豊饒の地との想いがあった筈である。
寒帯を除けば、日本列島における常陸の国は、まさしくユーラシア圏で最初に日の出を眺めることができる地。海人にとっては、ユートピアと思われていた所であろう。
実際、そこは、四季がある温帯モンスーン域で、陸には火山があり、豊かな森からは清水が流れ、海では黒潮と親潮がぶつかり海産物だらけ。和辻哲郎の風土論でいけば、他の地と比べれば、ここは箱庭のようで、なんでも手に入る豊饒で疾病も少ない理想郷と言えよう。
東端に到着した人類は、当然の如く、そこでの定着生活を始める。まさに記念すべきことでは。それこそが高天原コンセプトであり、その姿を抽象化したから普通の生活そのものの地となる訳だ。

従って、叙事詩を描こうと思えば、万世一系の天皇家になるのは当たり前である。勅命に従って記載したとはいえ、他の描き方など考えられまい。
ここは、大陸で生まれた叙事詩と大きく違う点だろう。天皇家のような核を持たなければ、叙事詩はバラバラなものの寄せ集めにならざるを得ない。
この辺りを十分理解しておく必要があろう。「古事記」を天皇制美化の書とか、統治の正統性を描く必要から纏められたとする見方があるが、ほとんど理解しがたい主張である。そもそも描かれている内容のほとんどが倫理的に褒められるようなモノではないのだから。美化どころか、貶める書とされかねないし、血筋維持が風前の灯火的な話もある訳で。
そこらを簡単に説明しておこう。

東端で定住した海人だが、そこは箱庭的世界。海人といっても、純漁撈人ではなく、耕作もし、採取狩猟もするというマルチな生活。住んでいる地に合わせた生活が営まれるから、大集団化しにくく、互いに独立した勢力として併存する傾向が強い。全体的に見れば、完璧な分権体制である。狭い地域毎に、生活の知恵が異なるから、それが好都合ということ。従って、そこだけ見れば、全体統括者が登場する余地は小さい。ところが、海人だから交流は盛ん。豊饒な地だから交易が進めば都市も生まれる。マネジメント上統括者は必要となるが、独裁者は育ちにくいのである。その知恵が貴種を頂く天皇制であろう。

神権政治なので王権と称すことになるが、共同体形成の要役としての貴種信仰であり、奴隷作り無しでは成り立たない武力制覇の王権とは出自からして違うのである。古事記は、その仕組みを護ろうという力が働いてきた歴史を謡った書と言ってもよいだろう。

考えてみれば、そのような制度になるのは、ある意味必然である。

日本列島に到達した海人自体が雑種化文化に染まっていた筈だからだ。はるばる渡来したとなれば、それは貴人であり、超人でもある。大切にされ婚姻関係も生じ、場合によっては王に。個々バラバラな勢力が産まれるのだが、同時に地域間で婚姻関係も生まれる素地が古くからあった筈で、だからこそ言語的に同質化していったと考えるべきだろう。

と言うことは、日本語の古層は、人類の東への海路の体験に染まっているとも言える。
そこは、中華帝国から見れば東端は辺境。そのことは、この地域で、一番の古層がママ残存している可能性が高いとも言える。しかも、宗教としての儒教は取り入れなかったから、前の文化を根絶やしにすることもない。探せば文化の残渣が見つかっておかしくないのだ。

従って、言語学者から総スカンの状況にある、大野晋のタミル語日本語同根説にも一理ある。タミル語はマダガスカルからシンガポールまで広がる紀元前の海人勢力の言語が発祥だからだ。文字化する前の言語は、海人特有のものだった筈で、それは日本語と通ずるところがあっておかしくはない。

「古事記」はそんなことを考えさせる書に仕上がっているのだ。

朝鮮半島についてほんの少々記載はしているが、大陸の動きについては一切触れていないから、日本だけに絞っているように見えるが、その実、冒頭から世界の流れを語っているとも言える訳だ。
コオロコオロと海から日本列島を造る以前の神々の名称にしても、インド洋からフィリピン海域、そして黒潮に乗って東端の地に到着した深層の記憶を蘇えさせるモノかも知れぬのである。

「古事記」には、国粋的な書とのイメージが与えられているが、実際は極めてグローバルで時間軸を超古層に伸ばして記載された、類い稀な書。
人類に残してくれた、珠玉の贈り物と言えよう。

   表紙>
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