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■■■ 古代の都 [2018.11.30] ■■■
[番外] 珠玉の「古事記」(4:神話集の頂点)

前段として、神話学の話をしておきたい。
素人の一知半解であることをご承知おき頂いてお読みくだされ。・・・

Witzelは「World Mythology」として、"Pan Gaean" "Out-of-Africa" "Gondwana" "Laurasian"という神話4分類を作り上げた。現実的に検討できそうなのは、後ろの2つであるが。
おそらく、従来型の比較神話学では限界があると考えたのであろう。批判を気にせず、遺伝子学の成果にのっとって神話形成シナリオを作成したということだと見た。換言すれば、言語形成はせいぜいが5,000年前であり、神話は古層の精神を反映しているのだから、脱言語圏で見るべきだという考え方に移行した訳である。
要するに、現生人類がアフリカで誕生した時点ですでに抱えていたものが"汎ガイア"。そこからアラビア半島⇒インド大陸西に到達した迄のものが"出アフリカ"ということ。その後、ユーラシア大陸全域に進出し、さらに新大陸にも到達した訳で、そんな地の神話の共通性を抽出し伝播をストーリー化できたタイプが"ローラシア型"。そこには乗りそうにないタイプもある訳で、それがパプア・ニューギニアやオーストラリアの伝承系。"ローラシア型"より古層ということで"ゴンドワナ型"。

小生からすれば、"ローラシア型"と"ゴンドワナ型"は、南方神話と北方神話に映ってしまうが、そう見てはいけないらしい。

その"ゴンドワナ型"だが、宇宙創造神話を欠き、すでに存在している世界にヒトが生まれてくる点が特徴とされる。海が最初から存在するような神話になる訳だ。まさに「古事記」型である。小生は、大洋を航海する海人が持ちそうな観念ではないかと思っている。
もう一つの特徴は、女性呪術師の欠如。こちらは日本には全くあてはまらない。

一方、"ローラシア型"は正反対で、宇宙の起源が語られる。その上で神々の系譜が盛り込まれる。さらに英雄神の事跡が加わり、その過程でヒトが生まれるというのが、共通の構成仕様。これにさらに、王の系譜と終末観が加わるのが普通らしい。
「古事記」には、宇宙の起源論が無いから、当然ながらその終末論も不在である。しかし、"ローラシア型"とされる。
起源論の基本パターンは、近親相姦の誕生と、やがて朽ち果てるという展開だからのようだ。国生みを指しているようだが、神を延々産み続ける訳にもいかないから、少々強引の嫌いはある。

細かな点が多少気になるので、一応書いてみただけだが、人類の移動と神話の伝播の本質論については100%納得できる。神話そのものより、神話を語る場をつくることに意味があるという点で。つまり、神話歌謡によって、集団に一体感を形成させることが最大の目的。普通は、語りには儀式的行為が伴なうから、それこそが祭祀共同体樹立の原点でもある訳だ。
「古事記」を神権政治の叙事詩と見なす所以はソコ。官僚による文書統治が基本である律令国家制度とは本来的には相容れないのである。神々は道教のように文書でヒエラルキー上の地位が決まることになり、祭祀が官僚制度に組み込まれるからだ。

(参照: 後藤明:「世界神話学入門」講談社現代新書 2017年)

ということで、「古事記」の神話について、考えてみよう。

小生は、「古事記」には、人類の一番古層の精神風土が記載されている気がする。
海外の類似パターンが指摘されている事が多いが、それを読んでいると、バラエティが極めて豊富であることに気付かせられるのである。しかも、多種とくる。このような神話本は珍しいのではあるまいか。

マ、普通は、神話はバラバラと収録されているもの。脈絡なく集めただけだったりするから、「古事記」は例外的存在なのである。

このことは、白川静が指摘したように、日本が文化の吹き溜まりになっていることと無縁ではないだろう。世界の古代の精神生活の残渣が日本には残されていることになる。なんでもかんでも集まっているとまでは言えないものの、できうる限り取り入れ大切に残して来たとしか思えないのである。

考えてもみれば、それは当然かも。

Witzelにしても、日本は多様な流れにさらされているので、基本は"ローラシア型"だが、"ゴンドワナ型"も入り込んでいると見なす位だから。

なにせ、各地の高級難民や、半ば人質的に来訪してきた人々を大勢抱えてきた社会だ。それぞれ違うバックグラウンドにもかかわらず、日本語族の混淆社会に同化させたのだから、神話のバラエティは半端なものではなかろう。
しかも、古層には、海人系人類のアウリカからの東方大移動時代の記憶までありそうだし。

ただ、それを、様々な流れに晒されたから多様化していると見なすのは、単純すぎよう。
そもそも中華帝国では神話自体がほとんど消滅させられており、「古事記」のような体系化された神話集は何一つ存在していない。中国神話と呼んでいるのは、断片情報の寄せ集めでしかなく、神話の位置付けが全く違うのである。仏教、キリスト教、儒教といった実在する聖人が作った宗教が支配的になれば、多かれ少なかれそれは避けられないのだと思う。
「古事記」はそうなる直前にまとめあげられたから、そのような消滅を回避できたとも言える。

しかも、日本列島は、ヒトが住み着いた当初から、共通言語を志向し、分権型の雑種社会にも拘ってきたようだか。神話もそれに沿って混淆・多様化するのは自然な流れだったろう。
従って、コピーし潤色したかのような神話は、おそらく、捜せばいくらでも出て来る。それは社会の現実を反映したにすぎないのである。

過去遺産を綺麗さっぱり切り捨て、新たな時代を切り拓こうと考える為政者が支配する地ではなかったのである。多くの場合、曖昧な解決で少しづつ脱皮を図るため、古いものと新しいものが併存することになり、そのうち傍目には代替完了に映るが、古き文化は残れる余地をどこかに見付けていたりするのだ。
「古事記」はそんな社会の実情を踏まえて情報収集して編纂した筈。

すでに書いて来たように、温帯黒潮文化圏とも言える日本列島は、比較論で言えば豊饒な地だらけ。モノカルチャーと分業で生産効率を上げなくとも、狭い地域で、漁撈、焼畑、堅果樹木栽培、林野採取、狩猟の混交経済活動で生きていけたのである。おそらく一早く土器使用に踏み切っただろう。
だからこそ、そんな風土が固定化していったと考えることもできよう。
つまり、なんでも試してみるスタイルでもあるということ。生活に実利がありそうなら新しい情報は大歓迎。貴種一族や高級難民は引く手あまただったのは間違いない。
「古事記」に於ける高天原とは、石器時代から連綿と続いているそのような風土の国の象徴だろう。日本の神話とは、フィクションでありながら、ノンフィクションなのである。

そのような豊かな社会があるとの話を耳にしたからこその、中華帝国に於ける徐福話と言えよう。神話に従った動きに映るが、すでに神話を必要としなくなっていたのである。

このように書くと、真剣な面持ちで忠実に過去をトレースしよう必死になって考えて、編纂に勤しむ姿を想いうかべてしまうが、叙事詩とはそうして創るものではない。トンデモ残虐行為あり、破廉恥バカ騒ぎあり、冗談半分、音の面白さ、・・・といった内容満載なのだ。だからこそ、集団で喜び溢れて"謡"を聴くのである。そこから、共同体意識が生まれ、その集団のなかで暮らすことの歓びをかみしめることができるようになっていく。従って、場を盛り上げるための語り手のアドリブが入る訳で、それを文字にすると生命力は失われてしまいかねない。ソコをなんとかしようということで、知識人の最高峰と前人未到の暗記力を持つ謡の名手がタッグを組んで上手に入れ込んだのである。

例えば、国生みでの島の順序など、「古事記」ならではの記述と言えよう。官僚が精査する公的な国史ではこんなことは無理だろう。
おそらく島の名前など、自明でつまらぬから茶化して入れ込むことにしたのだろうが、古代地名で揃える気がしなかったこともあろう。
結局、数合わせの駄洒落で行くことにしたようだが、"イイクニ作ろう鎌倉幕府"といい勝負の出来になっている。律令国家の文書統制社会のもとで、おおらかな祭祀で共同体の紐帯が形成された神権国家時代を懐かしんでいると、このような遊びを入れ込みたくもなろう。・・・
 【ひのもと 淡道之穗之狹別嶋
 【ふ/二】 伊豫二名嶋
 【み/三】 隱伎三子嶋
 【よ/四】 筑紫島 面四つ
 【いつ】 伊伎(壱岐)
 【むっつ 津島(対馬)
 【な/名 佐度島
 【や/八】 倭豊秋津島 大八嶋國

   表紙>
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