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■■■ 古代の都 [2018.12.2] ■■■
[001] 八尋殿

伊邪那岐・伊邪那美は造成した淤能碁呂島に入ると、そこにはすでに天之御柱と八尋殿がある。宮ではないが、八尋とあるから、広大な社殿ありということだろう。島内の特定の地は示されてていないから小島なのだろう。

「古事記」に最初に登場する建物になる訳だが、"美斗能麻具波比"のための場所以外に目的はなさそう。
両神の関係ははっきりしていないが、兄・妹のようだ。
 於是
 欲相見 其妹 伊邪那美命 追往黄泉國
兄妹がグルグル回りの追いかけごっこをして、捕まえて婚姻に至るという類似の神話が黒潮源流域の島嶼に存在しており、海人の紐帯を示していると見てよさそう。海洋に於いて超人性を発揮できる貴種の血統純粋性を保つため、近親相姦による異常発生は不問にされたのだろう。同母兄妹がタブーとはっきり示されるのは、相当に後世のことであり、この習慣は根強いものがあったようだ。

島を創ったら、そこにすでに御殿ができていたというのは、突拍子もないお話だが、結婚しない限り何も産まれないということなのだろう。

国生みが縄文海進の記憶と見なせば、淤能碁呂島の比定地も見えてくる。

大陸の端が島になったのだから、現代の眼から見ればとてつもない衝撃を与えたのは間違いなかろうが、海洋航海を旨とする勢力にしてみれば、ビックリは瀬戸海という内海が生まれたことでは。
前者は、津軽海峡から寒流が流れ込む日本海湾に対馬海峡から暖流が徐々に流れ込むようになっただけに過ぎないとも言えるからだ。
それに対して、後者は目を見張るものがあったろう。海水は、紀州灘⇒大阪湾⇒明石海峡⇒鳴門海峡⇒瀬戸海と入っていったからだ。バイパスの鳴門海門が開いた途端に、怒涛のように水が流入した筈なのである。
そんな激流に洗われた小島といえば、海進でいち早く島化したと思われる沼島。ココは、伊勢や九州の臼杵-八代に繋がる中央構造線上。従って、もともと、その地形も独特で目立っていたに違いなく、早くから黒潮海人勢力から注目を浴びていたと思われるし。

御陵については記載がないが、死んだ伊邪那美命が向かったのは泉國。

"死後所居住的地方"を意味する漢語だが、読み方の注が無いから、日本語のヨミはすでに一般化していたことになる。大陸では"黄(五行の土)"の地下世界であり、道教的には泉が存在する場所になるが、、死者の世界の概念がママ輸入されたは考えにくいから、同じ文字を使っていても内容的に異なる可能性があろう。
黒潮海人は、東から昇る朝日(誕生)と西に沈む夕日(死去)の対概念を持っていたと考えれば、ヨミとは"夜見"だったりする訳で地中世界を意味していないと考える方が自然である。

沖縄の場合、東方海原から神霊が来訪する聖地"久高島"は、死霊が旅立つ地でもあり、本土の"常世の国"発想とは違うとすでに書いたが、その場合でも聖地の西側の限定された場所に風葬墓地域が設定されている。そこは夜見ではなく、後生と呼ばれている。
本土では風葬は難しいから土葬になるが、殯の後に水洗した骨を埋めるのが正式墓制度だったろう。それを考えると、「古事記」の情景はいかにも横穴に遺骸を安置しただけの"殯"を想起させるシーンである。・・・
伊邪那美命追って訪問した伊邪那岐命は騰戸を開ける。墓地に社殿が造営されていることになる。
 爾 自殿騰戸出向之時
一方、死んだ伊邪那美命は黄泉の戸の向こう側から対応。遺骸は、殯丘の横穴内に安置されたのだろう。
 吾者爲黄泉戸喫
そして、伊邪那岐命はご存知オドロオドロしい遺骸を見てしまい、泉國の軍勢に追われることになるが、どうにか難局を乗り切る訳だ。
そのストーリーを読むと、後世、「魏志倭人伝」が倭は鬼道信仰と指摘した通りという気になる。大陸に於いては、鬼とは死霊のことだから、死霊の懼れに対応した道教的墓制がすでに縄文期に確立していた訳だ。
登場する"食物"からみて、不老長生信仰が根付いていたのは間違いないだろう。
 【笋(筍)】…成長が速く長生を意味する。
 【桃】…西王母が持つ不老長寿の蟠桃信仰
@紀元前4世紀頃を彷彿とさせる。纒向遺跡の中央建物から桃の種が大量に出土している訳だし。
 【蒲子】…覆盆子
(Raspberry:日本にも山岳地域に変種自生)を指すのでは。熟さない実の青酸は金を溶かすということで、仙薬として知られる。

泉國が何処かははっきり記載されてはいないが、出雲国から向かう場所とされている。
 黄泉比良坂者 今謂 出雲國之伊賦夜坂 也
  (墓所は"伊邪那美~者 葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也"である。 )
「出雲國風土記」意宇の郡に記載されている"意布夜[いふや(おそらく、言ふ屋/意宇社の意味)]の社"が該当するとされているが(在神祇官社とそうでない社の二座)、意宇の郡全般を指していると考えるだけでも十分である。
意宇郡の地名譚は国引き話だが、すべてをし終えた八束水臣津野命が発した言葉、"おゑ"[=瘁, 臥]が由来とされるからだ。
 今者國者引訖 詔
 而 意宇社 爾 御杖衝立 而
 意惠登詔 故云意宇

活動を止めて鎮座した訳で、イウの郡は、国を創った神が仮死状態に入って坐す地なのである。

これだけだと"夜見"という言葉とはつながらず、不可思議に映ってしまうが、無縁という訳ではない。日野川河口の海池(⇒皆生)から境港へは美保湾に沿って長い砂洲が伸びているが、その地名は夜見ガ浜(⇒弓ガ浜)。国引きの東の綱にあたる、夜見嶋である。潮流変化で島が再生したりするのであろう。

尚、意布夜の社の比定地としては、読みも文字も異なるが、揖夜[いや]@松江 東出雲揖屋根とその境内にある摂社の韓國伊太[いたて]神社とされている。後者は無関係だと思う。(イタテ神は「播磨國風土記」餝磨郡因達里に登場する。航海の船玉神らしい。・・・"息長帶比賣命 欲平韓國 渡座之時 息御々船前 伊太代之神 在此處")
「出雲国風土記」出雲郡宇賀郷には、俗人が黄泉之坂・黄泉之穴と呼ぶ礒窟が存在する、とも。弥生時代の遺物や人骨が発見された猪目洞窟@出雲 猪目と比定されるがなんともいえない。
 自礒西方有窟戸 高廣各六尺許 窟内有穴 人不得入 不知深淺也
 夢至此礒窟之邊者必死 故俗人 自古至今 號黄泉之坂 黄泉之穴也


伊耶那岐大神は3貴子にそれぞれ高天原、根の国、和多キ美を治めるように命じて、
 坐 淡海之多賀 也
従って、御陵は多賀神社ということになる。

淡海とは淡水湖の意味。近淡海(⇒近江)は琵琶湖、遠淡海(⇒遠江)は浜名湖だが、ここではそのような地名表現を避けたと考えるべきだろう。黒潮海人勢力の出自ではあるからこそ、淤能碁呂島で国生みを始めたが、温暖化に伴い、定着型の山人生活を送るようになり、大八嶋國の倭豊秋津島を治めるようになったのである。かつての海辺に戻る必然性は無いから、御陵は淡水の際の山が選ばれて当然である。
淡路とは、四国の阿波に通じる路に当たる島を指した言葉であり、淡海とは概念が全く異なる。ただ、琵琶湖は淡路島を裏返した形との感覚は以ていた可能性はありそう。

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