[→本シリーズ-INDEX]![]() ■■■ 古代の都 [2018.12.5] ■■■ [004] 天之御舍 大国主命譚の続き。 ------------------------------------------------------ [4] 御諸山上神の協力体制下での統治 光海依來之神が渡来 "能治我前者 吾 能共與相作成 若不然者 國難成"、と。 ------------------------------------------------------ 御諸山上神とは、三輪山のご神体とされているが、「古事記」にそのように書いてある訳ではない。 吾者 伊都岐奉 于倭之青垣東山上 中巻の初代天皇の部分で美和之大物主神とされているが、御諸山上神と同一と記述されてはいない。 奈良盆地中央西側の山であるから、山頂の日の出を拝むことになる。そうなると、この渡来神の本質は太陽信仰ではないか。 一方、三輪山の大物主神は蛇体との示唆的記述がある。つまり、表立って蛇信仰ありとしないのである。このことは、黒潮海人の流れを汲む太陽信仰勢力にとっては蛇信仰は消滅させるべきものなのだと思われる。御諸山上神の渡来は、その第一波と考えることもできよう。ある意味、信仰面における、第一次 "国譲り"だ。第二次は、政治権力一切合切を渡せと武力で脅して実現させたのである。 ------------------------------------------------------ [5] "国譲り" ------------------------------------------------------ 大国主命は統治権をすべて譲った訳ではなさそうで、出雲国の権力だけは保持することで決着したように見える。と言うのは、天御饗を獻ずるからだ。わざわざ新しい舍を造成させ、建御雷神を招いて送別宴を開催し、そこで自ら祝詞を詠う。 "獻ずる"としているものの、この手の宴会は主催者の支配権認知行為以外のなにものでもなかろう。 といっても、饗宴のための準備活動での名称には"天"が多用されており、高天原仕様であることを示している。聖なる海人料理を供したようだ。 その宴席の場は、特設会場というより行宮的。 於出雲國之多藝志之小濱 造天之御舍 多芸志は武志と比定されているらしい。浜辺に造成したようだから、当時、この地には入り海的場所があったのだろう。 ハイライトである祝詞に繋がるのは海人的火起こし儀式。 作天八十毘良迦 而 鎌海布之柄作燧臼 以 海蓴之柄作燧杵 而 鑽出火 常識的に考えれば、新たに造成した行宮を寿ぐ意味がある筈だ。 是我所燧火者 於高天原者 神産巣日御祖命之登陀流天之新巣之凝烟之八拳垂摩弖燒擧 地下者 於底津石根燒凝 ところが、そう考えると理解し難い内容だ。 棚引く煙が、地下の土台石を焼き固めるというのだから。火を尊崇する信仰があったとも思えないし、木造建築にとって火は危険この上ない存在であるというのに。 そうなると、これは出雲の統治権最期の儀式であり、特使帰還船出立を期して、統治の象徴である宮を燃す行為に見立てたと考えることもできよう。 この天之御舍は、出雲大社とされているようだが、建御雷神が高天原に返って和平状況を伝える前であり、そうなると、出雲大社を自ら造ったことになってしまう。 葦原中國は命に隨がうことになるが、天の日繼の"登陀流天之御巣"の宮と同等な宮を造成するの付帯条件があり、これは宮造成は天の日繼側が当たるとの約束だと思われる。 唯 僕住所者 如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巣 而 於底津石根宮柱布斗斯理(太知る) 於高天原氷木(千木)多迦斯理(高知る) そうなると、出雲大社は別な場所に新たに造成されたと考える方が自然だ。 その大社の祭祀力は"国譲り"後しばらくは落ちなかったようである。それを端的に示すのが独自規格の葺石墳墓の存在。と言っても、それが政治権力連合を意味している訳ではない。どう見ても、信仰者がグループ毎に石を納めることで墓を造っていくストーンサークル的なコンセプト。目立たせるならせいぜいのところ柱を立てる程度であろう。天皇の了承を得た権力継承の祭祀の場だったと思われる前方後円墳とは全く違うわけである。当然ながら。その手の墓制は消えることになる。 【四隅突出型墳丘墓】 [備後/広島] (三次地区) 宗祐池西#1,2 殿山#38,39 陣山#1,2,3,4,5 矢谷#1 岩脇#1 <B.C.100年> (庄原地区) 佐田谷#1 田尻山#1 [安芸/広島] (千代田地区) 歳ノ神#3,4 [石見/島根] (邑南 瑞穂地区) 順庵原 [出雲/島根] <B.C.0年> (出雲地区) 西谷#1,2,3,4,6,9 青木 中野美保 (玉湯地区) 布志名大谷Ⅲ#1,2,3 (松江地区) 間内越#1 来美#1 的場 友田 (鹿島地区) 南講武小廻 (安来地区) 宮山Ⅳ(鉄刀), 仲仙寺#8.9,10 塩津山#6.10 安養寺#1,3,6 下山 (伯太地区) カワカツ (西郷地区) 大城 [西伯耆/鳥取] (米子地区) 日下#1, 尾高浅山#1 (淀江/大山地区) 洞ノ原#1,3,4,5,7,8,9,10,11,12,13,16,17 仙谷#1,2 洞ノ原#2はプレ四隅突出 (日野溝口地区) 父原#1,2 [東伯耆/鳥取] (倉吉地区) 阿弥大寺#1,2,3 藤和 柴栗 (東郷地区) 宮内#1 [因幡/鳥取] (鳥取地区) 西桂見 (岩美国府地区) 糸谷#1 [美作/岡山] (鏡野地区) 竹田#8 [播磨] /岡山] (加西地区) 周遍寺山#1 (鏡野地区) 船木南山 [越前 /福井] (清水地区) 小羽山#22,23,24,30,33,47 (高柳地区) 高柳#2 [加賀 /石川] (松任地区) 一塚#21 [越中 /富山] (富山地区) 杉谷#4 (婦中地区) 富崎#1,2,3 六治 鏡坂#1,2 [岩代 /福島] (塩川地区) 舘ノ内#1 (参照) 鳥取県埋蔵文化財センター www.pref.tottori.lg.jp/secure/76301/yosumi.pdf 未確定がかなり多く含まれている。年代は記載されていない。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |