[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.12.6] ■■■ [番外-6] 墓制と「古事記」 (1:磨製"旧"石器時代) 「古事記」編纂者 太安万萬侶以[723年没]の火葬木棺墓が偶然見つかったのは、墓誌が出土したから。まさに文字の時代ならではのこと。 左京四條四坊従四位勲五等太朝臣安萬癸亥年七月六日辛之養老七年十二月十五日乙巳 日本列島の居住者は、大陸での文字使用を知りながら、文字使用を嫌って敬遠し続けたようである。言葉文化を大切にしており、墓碑に当たるものも嫌悪していたようだ。 しかし、そうもいかなくなり、表意文字としてと、表音文字としての、漢字を使うことにした訳だ。だが、日本語の訓読みには徹頭徹尾こだわったようである。 その苦闘の結果が「古事記」として結晶化したと言ってもよいだろう。 そのおかげで、古代人の観念がそれとなく伝わってくる。 と言うことで、死生観というか、墓制について「古事記」的に考えてみたい。そこらはセンスの問題。・・・"前方後円墳は政治的なもの"と誰が見ても当たり前のことを言ったところで、"So, what?"でしかない訳で。 考えるにあたっては、儒教の影響を確認しておく必要があろう。 「ギライ/儀礼」は周王朝の官僚が従うべき冠・婚・喪・外交の規定書だが、葬儀集団でもあった孔子勢力にとっては最重要なのが、そのなかの士喪礼。死者の魂を呼び戻す儀式から、埋葬後の虞祭まで、事細かな決まりがある。朝鮮半島は現在も小中華文化を旨とする紛れなき儒教国だから、哭を始め現代習俗に色濃く受け継がれている。 ところが、日本列島は、律令国家化して政治的に都合のよい道徳と儀礼形式だけは大いに活用したものの、それ以前から一貫して宗教的核は一切受け入れなかったのは間違いない。宗廟は無いし、墓主銘や追慕詞[誄]を納めることにも何の関心も示さなかったのである。いかにも、"言葉ありき"の国らしい姿勢といえよう。 玄界灘〜半島多島海の民は漁撈交易で一体化していたようだが、それ以外の人々にとっては、言葉の違いはコミュニケーション上の障壁レベルではなかったのである。だからこそ、「古事記」は漢字でありながら、日本語表記に拘ったとも言える。 従って、日本列島の墓制の大所を把握する際、半島との比較論は、参考にしないほうがよい。 「古事記」からすれば、謡「日本語圏」こそが日本の国のアイデンティティ。日本列島人と言っても所詮は時代軸で異なる渡来人に過ぎないことをわかっていたからだろう。言うまでもないが、一番の古手は渡来海人で、そこに、様々な渡来人が加わり雑炊的に土着化を果たしたのである。 そして、旧石器時代に関しては、この絡みで、十分注意を払うべき点があろう。黒潮海人の動きを重視する必要があるからだ。 ユーラシア大陸全般で見れば、欧州での時代区分概念がすべて当てはまると言われている。人類が移動してきた時間軸を示しているとも言える。 ところが、旧石器時代の年代であるにもかかわらず、磨製石器が出土し、この時間軸概念を当て嵌めることができない地域がある。しかも、その地では、海洋で隔絶されていながら石が運搬された証拠が見つかっている。この時代舟など造れる筈なしという常識では説明不可能なのである。 そんな地域とは、日本列島〜スンダ(東南アジア島嶼)〜サフルランド(オーストラリア-ニューギニア)。大陸とは異なる文化圏と見なすしかあるまい。(尚、分子人類学はこの点については全く無力。当たり前だが、現時点の住人と古代の住人が同じとの証拠は何もないからだ。沖縄を除き、日本列島の古代人人骨サンプルは皆無である。) 「古事記」が海人的な島国創成話を持ち出しているのは、実に慧眼と言わざるを得まい。 と言うことで、これらを踏まえて考えていこう。 先ず、「古事記」に於ける最古の墓墳情景だが、"生きる草"たる人々の生活域から墓域へは、物理的にはそのママ行けるが、死者の地は隔絶されるべしと考えている点が特徴である。遥かかなたの天国とか、とんでもない遠方の西方浄土感とは無縁。 最後 其妹伊邪那美命身自追來焉 爾 千引石引塞其黄泉比良坂 其石置中各對立而度事戸之時 伊邪那美命言 愛我那勢命爲如此者 汝國之人草一日絞殺千頭 爾 伊邪那岐命詔 愛我那邇妹命汝爲然者 吾 一日立千五百産屋 是以 一日必千人死 一日必千五百人生 也 このことは、人々が草の如くに定着した状況になって、墓制が始まったと読むこともできそう。 現実の生活の場と死者の魂が住む墓地とは近隣そのものだったと見ることもできよう。しかしながら、死者の霊は恐ろしいものだから、境に石を設置しないと殺されかねないと考えていた訳だ。考えてみれば、現代の信仰とさほど変わりはない。葬儀に係ると、塩でお祓いをすることになっているのだから。生活域から納骨場にいつでも行ける状況という点でも、遺骨に拘る心情を物語っていそう。この拘りは、世界に類例を見ないという説もある位なのだから。 日本列島へ最初に到来したのは、北方のマンモス狩猟移住人と南洋から黒潮にのって渡航してきた海人と考えると、この墓制がういて来たとは言い難い。両者ともに風葬の筈だからだ。 前者は、焚火洞窟棲だろうから、肉食獣が遺骸でヒト肉の味を覚えたりすれば危険この上ないから、曝葬(野外放置)は避けた筈である。近隣の住居不適な洞窟放置が最良。しかし、狩猟生活者は移動を与儀なくされるから、墓は放置されるだけ。老人や怪我人は墓守化(死の道行)を余儀なくされる訳で、その辛い想いが残っていたに違いない。定着生活に入ると、墓は生活域のそばにという発想は自然に生まれたに違いない。 一方、後者は渡航中なら水葬しかないが、陸上生活なら獣が来そうにない地点の風葬・鳥葬となろう。適地が無ければ、土葬だろうが燃料が豊富なら火葬があってもおかしくない。どうあれ、墓域は住民により明確に設定されていた筈だ。 《放置墓》 [北方狩猟系]風葬・(曝葬) [南洋海人系]風葬・水葬・(鳥葬等) [特殊事情]土葬・火葬 伊邪那美命の黄泉のシーンは、そんな時代を終え、墓の造成を始め、遺骸移動と遺体設置の儀式を始めた頃の雰囲気を伝えている。"殯"的風習は当時の記憶そのものでは。 長くなるが、折角だから、日本の旧石器時代を描いておこう。 発掘結果がなによりも雄弁に物語る。・・・ ○ ナウマン象化石(国内では1万7千年前絶滅。)で有名な野尻湖周辺の遺跡群@大雑把で4万年前で、石斧が大量に出土している。(日向林B60個, 貫ノ木54個, 仲町バイパス43個, 等)透閃石岩(軟玉系)製だが、刃先のみ研磨加工されている。(砥石も発見されている。) ○ 八ヶ岳西麓 三国の遺跡 尖石石器時代@茅野 豊平からは、石鏃 石斧 石錐 石匙 石皿が出土。ここには円形炉跡と柱跡があり集落が存在していたとされる。(鏃が出土すると縄文期と見なすことが多いようだが、時代区分の定義がよくわからないので気にする必要はないと思う。) ○ 円礫が直径10mに並ぶ田名向原@20,000年前 相模原 田名塩田では、尖頭器193個、ナイフ形石器50個が出土した。二次加工剥片と母岩が含まれ、ここでも、明瞭な柱跡が見つかった。 有名例だけあげたが、日本列島の遺跡数は膨大。(確認していないが、日本旧石器学会認定数は14,542らしい。)旧石器時代の活動は全国的に盛んだったのは間違いない。武蔵野台地の場合、地層が平坦で積み重なっているため地層の年代判定がわかりやすい訳だが、石器出現は姶良カルデラ大爆発(AT火山灰層)より古いことははっきりしている。但し、4万年前を越えることはない。 これだけ遺跡が多いにもかかわらず、柱跡は希少例に留まっている。(通常、数十点の石器と砂礫が散乱。)例外として片付けることもできないことはないが、建築物は簡素だから、定住生活がかなり拡がっていたと考える方が自然ではないか。石器加工場、狩猟時期住居、漁撈時期住居といった、相当に高度な棲み分け生活を繰り広げていた可能性さえあろう。 土器は無いものの、鋭利な黒曜石ナイフと磨製石斧で皮革容器を作ってていたことになろう。証拠は無いが、杉の加工用かも。(焼・蒸だけでなく煮沸処理や醗酵による保存食化を実現していたことになる。寒冷地に進出した南洋海人ならいかにも考えそうなこと。)勿論、土器登場でこの手の容器は不要になり、縄文(土器)時代草創期に連続的に繋がっていくことになる。 そして、海外では類例が見つかっていない、落とし穴猟(鹿・猪・小獣)が行われていたこともわかっている。 もちろん、川縁に近いから、鮭/鱒漁撈に携わっていない筈がない。 旧石器時代の日本列島の住民にとっては、土着生活が一番好都合だったと見た方がよかろう。大陸とは違って、箱庭的風土であるから、定住して老人の蓄積した知識を活用する方が、占いで行先を決めて彷徨するより圧倒的に豊饒な生活を送れることがわかってしまったということでもあろう。 ただ、そのためには、状況に合った優れた道具が必要であり、道具の改良や、道具入手や技術導入のための人間の移動は盛んだったに違いないのである。墓はそんな先人との一体感醸成と超人的能力を受け継ぐための不可欠な施設だった筈。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |