[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.12.8] ■■■ [番外-8] 墓制と「古事記」 (3:密集集団墓時代) 縄文土器時代にかけての集落遺跡は多種多様。 ただ、古いタイプでは環状に住居が配置され、その中央には広場があり、そこが集団墓地。 配置形はともかく、住居域と墓域が隣接。しかし、両者は画然と区別されている点が特徴ということのようだ。 「古事記」の記述からすれば、生きている人は、何時でも自分につながりがある死者が居る世界に入れる観念が存在していたのは間違いなさそう。生者と死者の共同体が村落という概念だったのであろう。それが移住生活から定住生活への思想的転換点だったということか。 ・・・死者が居る黄泉国を訪れたいならすぐ側にあるからいつでも可能だが、それは避けるべき行為というのが、「古事記」の記述である。 この辺りの観念は現代とは異なるので分かりにくいが、死者の霊が遺骸に乗り移ってはこまるというのは、死霊は新たな命として親族の母胎に宿るとの、"再生"観念があったと考えれば難しい話ではない。死産や乳児死亡の場合、特別な計らいが行われて当然である。ただ、儀式仕様を統一する必然性は無さそう。 世界が温暖化し海進が始まると、関東甲信越を中心に、多種多様な食物調達が可能となり豊饒な生活が約束されたようである。当時の黒潮沿岸は落葉広葉樹林帯が発達し陸地の奥にまで海が入り込む内湾が生まれたので、この辺りの人口は急速に増加したようである。状況証拠でしかないものの、旧石器時代にすでに舟を用いていたとしか思えず、交易が盛んであったと見てよさそう。日本列島では、集団定住生活はかなり古くから始まっていたことになる。 例えば、典型的拠点型の環状集落とされている西田遺跡@岩手 紫波では、192基もの集団共同墓地と大型柱穴が見つかっている。祭祀場と見なせば、この建物は住居ではなく、恒常的な殯宮だった筈。 密集度が傑出しているとされる八ヶ岳南麓に位置する楕円形の梅之木@5000年前山梨 北杜では150もの竪穴住居発掘されている。 重層化した遺跡の可能性もなきにしもあらずだが、場所から見て、長期間使用可能な住居と考える方が自然である。 墓場には極く身近な人々の霊魂が眠っている訳で、親しかった時代をいつまでも懐かしんでいたと言えなくもない。生活の場の側にあるということは、食を墓地に備える風習がこの時代から始まっていたことを意味していそう。 換言すれば、死者への恐れを常に感じながらの生活だったとも言えよう。本来的には殉死すべきところ、生き続けているからで、何時、死者に呼寄せられるかわかったものではないのだ。 十分にその地で満足して頂けるようにお供えをすることになるし、エンタテインメントも欠かせないと考えるのは、そういうことだろう。 そうなれば、遺体が動きださぬように埋葬することは極めて重要なこと。そのため古代は屈葬が多いと言えなくもないが、、伸展葬(伏臥・仰臥)との心理的差違があるということではなく、遺骸が動かないように、どのように布で包むかの違いだろう。徹底したいなら、さらに抱き石もありえるし、現生に興味を覚えそうな故人だと思えば、顔の甕被りという手も用いられる訳だ。後世になると、これがお棺のコンセプトに繋がる訳だ。こちらは、おそらく渡来思想だが。 生前からの使用品(身体装飾品/生業用道具類/武具)も取りに生活域に戻られてはこまるから、遺骸と一緒に故人に直接つながる物品類はすべて葬ることになろう。この時代の副葬品とは、そういう品々でしかないと考えるのが自然である。この習慣は、現代の火葬にも引き継がれているのはご存知の通り。 工芸品に製作者の霊が籠るとの後世の感覚も、ここらから引き継がれていると見てもよさそう。 抜歯の習慣にしても、成人儀礼と見なすよりは、殉死の代替行為と考える方がよいのではなかろうか。喪に服すとは、死者につきそうということであろう。 尚、「古事記」では、最初の死を切欠に、伊邪那岐命が十拳剣で原因をなった迦具土神の頸を斬る。その飛び散った血は湯津石村に走り就き3柱の神となる。 石拆神 根拆神 石筒之男神 湯津(=五百箇の)の石(=磐 イワ)村(=叢 ムラ)とは、いかにも、環状石が並ぶ集団墓地の情景そのものであり、血で墓地を落ち着かせる様子を表したもののように思える。時に遺骸や副葬品に赤色塗料(茜の根⇒鉄赤錆⇒朱/丹)の跡が見られるのはそのような風習を示していると考えることもできよう。ここでは、おそらく赤鉄鉱だろう。この邪を祓う仕来たりは中華帝国盛んだったこともあり、古墳時代にまで引き継がれていくことになる。 さらに、供犠の神聖な血を捧げる思想も流れている。剣の血から生まれる別な3神は部族狩猟神的意味がありそう。 甕速日~ 樋速日~ 建御雷之男~/建布都~/豊布都神 この剣だが、おそらく、長さ40cm程度(10拳)の扁平な棒状の打製石器。金属器が登場した頃の石剣は、模造の磨製石器でしかなさそうだが、純縄文土器時代のものは貴重な祭祀専用器具だと思う。縄文晩期の石剣には紋様付き張り出し瘤がついていることがある。そこで、出所名をつけ、天(東の高天原製)之尾羽張/伊都(西の伊都国製)之尾羽張と呼ばれたのでは。 ─・─・─ 墓仕様分類 ─・─・─ 前集団墓[非定住]⇒密集集団墓[縄文期]⇒区画集合墳[弥生期]⇒威信墳{古墳期} 土壙⇒棺⇒槨(粘土床, 粘土土壙, 玄室[竪穴, 横穴])+棺 《放置墓》 風葬 水葬・(鳥葬等) 火葬 《散骨/撒骨墓》 《単純土被墓》 (配石墓) (盛土墓) (植樹墓)…柱 《下敷坑》 土壙 置石土坑(⇒支石墓:支石&大型被壙石)@九州 《木製棺》 板材組合棺(直埋箱式, 古墳用箱形) 巨大半割丸太刳抜棺(割竹型) 《焼物製棺》 合わせ口大型甕棺@九州…殯 (骨壺)…殯[集骨] 円筒型土器棺, 朝顔型埴輪棺 亀甲形陶棺(土師器, 須恵器)@吉備 《特別製棺》 乾漆棺(夾紵) 《石製棺》…堅牢密閉構造 (石囲墓) 板状囲み石棺(箱式石棺:墓壙囲み石板+蓋石)[扁平自然石, 加工凝灰岩] 〃 (家型) 〃 (家型横口付)@ローカル 〃 (槨的家型:無底石)@九州 刳抜石棺(舟形/割竹形)@ローカル 〃 (家型) 板材組合棺模造石棺(長持形)@巨大古墳[竜山石] 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |