[→本シリーズ−INDEX]

■■■ 古代の都 [2018.12.15] ■■■
[番外-15] 墓制と「古事記」
(10:"半島の影響"考)

日本列島は大陸と違って気候も地形もチマチマとしており、大陸と違って多様そのもので、まさに箱庭的環境と言えよう。ただ、住民は古くから「日本語」での統一を心掛けていたようで、その結果、"一つの文化圏を形成し続けて来たといえよう。

ただ、住んでいる地域の自然に合わせた生活をすれば、自動的に幕の内弁当的なバラバラな地方文化が形成される訳である。
墓制はその点で、特徴的と言えよう。
よく見れば、必ず、地域毎の細々とした文化的違いに気付く筈である。しかし、それは言わば表現形態での独自性の主張でしかなく、本質的に大きな差異が無いと考えた方がよい。
バラバラな地方文化と言っても、互いの交流は頻繁だったし、新しい文化の受け入れには積極的な姿勢を示す地域が多かったからであろう。
海人の主業たる漁撈だけではエネルギー的に自給生活は難しいから、バラエティに富んだ食生活を追求せざるを得ないため交流必至であり、それが黒潮海人の体質なのかも知れぬ。保存食なくしては飢餓に襲われること必定であり、豊漁期の共同作業は不可欠だから、堅果採取集団化もお手のものだったろうし、狩猟を生業としていた大陸の人々とは生活感覚が全く違っていたと見てよいだろう。

さらに、箱庭的環境だったことが幸いし、渡来人がその気になれば空いたスペースで生活可能だった点も多かろう。大陸は、縄文海進以来、奴隷か撲滅の二択で領土拡大を図る国家が主導しており、日本列島に至る高等難民は続出していた訳だが、それを受け入れる体勢ができていたとも言えよう。
当然ながら、儒教の喪制をベースとした"宗族"支配から逃れた人々が渡来したのであるから、宗教としての儒教が日本に根付く訳がないのである。

しかし、死生観の結晶でもある墓制は、人々のアイデンティティそのものだから、渡来人も周囲の状況を勘案しながら新しい方法を模索したに違いない。
婚姻関係が生まれた、在来民もそれを受け入れながら、新たな墓制を作ったに違いあるまい。
従って、どのような渡来人を受け入れたかで、墓制は変化していくことになる。全国津々浦々様々な墓の形態が生まれて当然といえよう。そこには、大陸と類似の様相は色々と見つかる筈である。
例えば、前方後円墳は石葺きだが、九州北西部のドルメン登場と同様に、突然の出現である。小生は、その本質的な意味はおそらく環状列石と同じだと思う。しかし、そのモデルが大陸に無い訳ではない。石材調達が極めて難しい地のツングース系(高句麗)は基本盛り土に積み石タイプ。外見からすれば、石葺きとなんらかわらない。従って、その影響は存在すると考えるべきだろう。それだけのこと。一方、魏志倭人伝的観点から墓を眺めると、前方後円墳の分類は有槨有棺タイプにあたる。これに対して、高句麗は原則有槨無棺である。
(「魏志倭人伝」での喪制記述は冢の形態がわからないのでなんとも言い難いが「有棺無槨」とされている。"其死 有棺無槨 封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉 喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐"とされている。)
要するに、見方を変えれば、どのようにでも解釈可能なのである。重要なのは、死生観に基づいた墓制の解釈であって、それからすると、半島からの影響が濃厚とは言い難いということ。(濃厚な関係があった百濟にしても、当の百済が中国南朝の文化的影響をモロに被っており、日本への影響がはたして百濟経由なのかはなんとも言い難いところがある。)

「古事記」を通して読めばすぐわかるが、"朝鮮半島"からの渡来文化の影響が大きいと考える根拠は薄弱と言わざるを得ない。
しかし、「古事記」が恣意的にそのように編纂されている訳ではない。渡来神「韓神」も系譜に登場するし、降臨地も「韓國」との交通至便性との記述がなされている。もちろん、半島と関係した個別的な話も収録。明らかに、紐帯有りと示しているのは間違いないのである。
(「伊豫の國風土記に曰はく、・・・坐す神の御名は大山積の神。・・・此神、百濟の國より度り來まして、津の國の御嶋に坐しき。」という話まである。)
このことは、ヒトやモノの交流は極めて盛んだったにもかかわらず、根本的な文化では大陸とは深い溝があることを意味していよう。渡来人の数は多いし、その影響力は小さなものではなかったにもかかわらず、本質的な"思想"は全く移入されなかったのである。

なんといっても、思想上での大きい違いは、「天」のコンセプトだろう。
大陸の影位は感じられそうなものだが、「古事記」をどう読もうと微塵も感じられない。
ご存知のように、大陸の場合、ツングース系も中華帝国(北方)の創成神話も(従って新羅も)、すべて"卵生"譚である。
帝王の降臨はそのつながりで発生する。そのため、"高天原"のような社会が描かれることは無い。大陸の"天"は抽象的概念にまで昇華されており、「古事記」の如き具体性ある社会を描こうとする訳がないが。

それに、大陸では、征服だけを目指す降臨を王朝創始譚に持ち込むことは無いのでは。それは創始ではなく、地上での王朝交代、天命による革命なのだから。
さらに付け加えるなら、地上平定のために、臣下のみが降臨するとか、引き連れて降臨するといった話だと、大陸では違和感を与えるのではなかろうか。
普通は、降臨を待ち望む民がおり、そこに帝王が降臨というのが基本パターンではあるまいか。特に、朝鮮半島の国家は、中華帝国側から渡来した王が創始したとされているから尚更である。支配大歓迎の図が降臨なのである。

言うまでもなく、「古事記」は、冒頭から海人的文化であることを示しているし、遊牧民にとっては重要な月や星といった天体についも、ほぼ無関心の態。
遊牧文化が主導してきた大陸の思想の、日本語文化圏へのママ移入は極めて難しいのである。
大陸の血を引く人々も、日本語文化圏に取り込まれると、表面的風俗や便利な文化が混淆されることになるが、本質的な移入は全くできないママ呑みこまれていく訳だ。
当然ながら、表面的風俗でしかないから、いつでもそれは変更できることになる。
日本は端から雑種社会であり、地域分権型統治(半島は都への中央集中である。)だったから、そのような変化を許容する体質が出来上がっていたと言ってもよかろう。

【古代「朝鮮語」から考えると・・・】
そもそも古代に「朝鮮語」という言語は無い。半島統一国家は古代にはなかったし、その後の半島統一過程も、文献的古代情報が国内に保存されているとは考え難く、限られた海外存在文献に依拠するしかない。現住民の言葉や伝承にしても、古代の住民との繋がりの有無さえ分からないから、いくら検討したところで憶測レベルでしかない。古代「朝鮮語」論は曖昧なものという前提で考えるべきだろう。
ちなみに、現代「朝鮮語」の多くの語彙は、中国語と、中国でも使われている日本の造語。しかし、基本語彙は、「日本語」や各種「中国語」とは全く一致していない。と言って、ツングース系とも完全に一致している訳ではなく、系譜的に全く異なる言語である。
書き言葉だが、半島では古くから漢字が使われている。しかし、日本のように音訓併存だったことは一度もない。にもかかわらず、自言語の文字化
(ハングル)がとてつもなく遅かったから、「朝鮮語」から古代語を辿ることは原理的に無理がありすぎる。要するに、文字を使う支配階層の言葉は純「中国語」だった訳で、被支配者が使っていた言葉が古代「朝鮮語」だったということになる。もちろん、後者は文字には全く残っていないのである。
そのような言葉を想像し、いくらその音が似ていようが、地続きではなく、奴隷を受け入れる習慣も無かった日本列島に、被支配者の話言葉が入ってくる可能性は限りなく低かろう。

だが、それは、半島の古代言語が日本語に入っていないことを意味している訳ではない。半島の非「朝鮮語」は沢山入っていておかしくないのである。ここらをを仕分けしないで、全く文化的に異なる言語を一括して古代「朝鮮語」として扱うのはどうかと思う。

一つは、北側のツングース系言語
(扶余の別種高句麗の言語や満州語。朝鮮語ではない。)。言うまでもなく、北方遊牧民族の伝統を大切にする人々の言葉であり、日本語にもその文化の切れはしは風俗としてかなり流入しているのは間違いない。当然ながら語彙も数々入っているだろう。しかし、上述したように、「古事記」を読む限り、本質的なレベルでは文化的影響力は極めて小さい。

一方、影響力甚大なのが自明なのは、中国の史書で指摘されている渤海側の"倭人"の言葉。"倭人"と言っても、この場合は日本人を指しているのではなく、祖は揚子江に近い地域が本貫地の、半島に住んでいた越の一族である。中華帝国からの独立を貫いてきた海人勢力だ。
状況から見て、北九州西部・済州島・半島多島海地域はその勢力範囲。どの辺りが最強勢力だったかははっきりしないが、一帯で同一言語が使われていた可能性が高かろう。出自的に一致点が無い以上、朝鮮語とは全く違う言語と見てよいだろう。
百済はその系譜に繋がる国だが、新羅に滅亡させられたのでその言語状況は全くわからない。
(おそらく、日本語の"呉"音とは、百済と交流していた頃の漢字読みだろう。)済州島は独自文化の地域だが、こちらの勢力も完璧に消滅させられており、言語どころか伝承文化を辿ることさえできない状態。半島は早くから小中華思想で覆われており、奴隷制国家だったことを考えれば、これらの地域の現在の住民とは移住者で、古代の"倭人"とは無縁の可能性も高い。
言い換えれば、この地域の支配者層はすべて日本列島に移住済ということ。従って、日本列島にとっては渡来人の影響は大きいが、文化的根は江南型黒潮海人文化なので親和性は高いので、混淆すると早晩文化的区別は難しくなろう。

これらの、ツングース系と倭人系の地域外は、新羅国の支配地に当たる。その支配者は土着ではないようで、中国の見方では、その始祖は中国だが、倭人と違って時代的に相当後のこと。覇権争いで押し出された宗族がバラバラの土着勢力から権力を奪ったのだと思われる。こうなると、半島には文字が無かったから、支配者層は土着言語でなく、渡来者の言語をママ使うしかない。
この地域は、北や南西部と違って気候風土上、生産基盤は脆弱。鉱山の存在と金属精錬で成り立つ国家以上ではなかった筈。
ただ、日本にとってはは、ココが金属インゴット調達先だったから極めて重要な地。当然ながら、征服の企ても多かった訳である。それは、ツングース国家や中華帝国も同じことが言えよう。従って、中華帝国傘下と称し、常時臨戦体制を敷く以外に生き残る手立てはなかったろう。ただ、もともと中華帝国内の宗族が渡来して樹立した国家だから、そこらは手慣れていただろうが。そのような文化域からの日本列島への言語的影響力は極めて限定的と考えるのが自然である。

ただ、北側のツングース系渡来人さえかなりの数にのぼったようだから、地理的に近いこの地域からの渡来人の数はただならぬものがあったかも。それは交易から生じたと言うよりは、儒教国家ならではの現象ということで。・・・一族絶滅リスクに直面すれば、逃れるのが最良の手。そんな高級難民だらけだったと思われる。
(例えば、戦果が挙げられないと、一族抹殺間違い無しだから、戦争で必死になるのである。この苦境を精神的に支えたのが喪を司る儒教である。)
おそらく、日本の各地にそうした難民の流れを汲む神社が存在するだろう。一族抹殺のリスクが無くなり、気候風土的に十分魅力を感じさせる地が余りに余っている国に渡来したのだから、喜んで溶け込んだと見てよかろう。血筋にしても、ツングース系や倭人とは違い、中華帝国内が本貫地の国家であり、半島への故郷想いは薄かっただろうから、早くに日本人化したと思われる。


   表紙>
 (C) 2018 RandDManagement.com