[→本シリーズ−INDEX]

■■■ 古代の都 [2018.12.19] ■■■
[番外-19] 墓制と「古事記」
(14:月神)

黄泉国譚についてはすでに取り上げてきたが、解釈が難しく、「古事記」の真骨頂とも言える箇所と言えそう。

黄泉国の穢れを祓うための"禊"から、天照大御~(誓約で生まれるのが天皇家祖先)と建速須佐之男命(その子孫が大国主命)が生まれるのだから。
ただ、この2柱だけではなく、"生終得三貴子"であり"夜之食國"統治を命じられる月讀神が加わる。いかにも、太陽神と対比的に存在する風情を醸し出しているが、性別不明で、これ以外に全く記述が無いという不思議さ。
海人神話なのだから、初期の段階に潮汐の月次的変化(女性の月経周期)を生み出す神として登場してもよさそうなものだ。

そして、厄介なのは、なんの話も無いため、月神といってもその位置付けがとうなっているのか皆目わからない点。
天体としての周期的形状変化から時を算える"月暦"という意味とは限らないのである。
"月神"は仏教鎮護国家の後の神仏混淆期に阿弥陀如来とされたことから見て、西方浄土観が被っていたようだから、"讀"は、、"夜見"あるいは墓域の"黄泉"を意味している可能性もある訳で。"夜之食國"は明らかに異界なのだから。

と言っても、河合隼雄流に日本独特の「無為の神」という解釈は強引すぎるだろう。そもそも、日本人が実体無しの思弁的な神を創出するとは思えないこともあるが、「万葉集」に月読が登場しているからだ。
娘子が湯原王に贈れる歌一首[巻四#670]
 月読の 光に来ませ 足引の 山を隔てて 遠からなくに
湯原王の和へたまへる歌一首[巻四#671]
 月読の 光は清く 照らせれど 惑へる心 堪へじとぞ思もふ
湯原王の月の歌二首[巻六#985]
 天にます 月読壮子 賄はせむ 今宵の長さ 五百夜継ぎこそ
月を詠める[巻七#1075, 1080]
 海原の 道遠みかも 月読の 光少なき 夜は更ちつつ
 久かたの 天照る月は 神代にか 出かへるらむ 年は経につつ

月に寄す[巻七#1372]
 み空行く 月読壮士 夕さらず 目には見れども 寄るよしも無し
[巻十#2010]
 夕星の 通ふ天道をいつまでか 仰ぎて待たむ 月人壮士
右ノ三十八首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。[巻十#2043, 2051]
 秋風の 清けき夕へ 天の川 舟榜ぎ渡る 月人壮士
 天の原 さしてや射ると 白真弓 引きて隠せる
月人壮士
月を詠める[巻十#2223]
 天の海に 月の船浮け 桂楫 懸けて榜ぐ見ゆ 月人壮士
[巻十三#3245]
 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
 
月読の 持てる変若水 い取り来て 君に奉りて
 変若得しむもの

右の八首は 船乗りして海つ路に入る時よめる歌[巻十五#3599]
 月読の 光を清み 神島の 磯廻の浦ゆ 船出す我は
〔七夕歌一首〕右、柿本朝臣人麿の歌。[巻十五#3611]
 大船に 真楫しじ貫ぬき 海原を 榜ぎ出て渡る 月人壮士
長門の浦より舶出せし夜、月光を仰観てよめる歌三首[巻十五#3622]
 月読の 光を清み 夕凪に 水手の声呼び 浦廻榜ぐかも
ここからすると、月神は男神のようである。

一般的な神話解説には、「太陽=男性=光」と「月=女性=闇」の二元性ありと書かれていることが多いような気がするが、メソポタミアや印欧系言語圏と同じで、「太陽=女性」と「月=男性」なのである。
(このドグマに合わせ、天照天照大御~男神説もあるようだが、天照大御神が、速須佐之男命に対して、"我那勢命之上來"と言うから姉と考えるべきだろう。しかも、高天原で機織りに携わっているし。)
ただ、中国ではご存知の通り、月に居るのは女性である。
嫦娥/娥…后羿の妻で西王母から夫が貰った不死薬を盗飲し月宮/廣寒宮に逃亡し蟾蜍[蟇蛙]と化す。
常羲…帝氓フ妻で12人の娘(月)を生んだ。在 日月山。[天樞 呉天門 日月所入]@「山海経」大荒西経 →]
尤も、中国でも、余り知られてはいないようだが、男性譚もある。
呉剛…仙術で過誤を犯し、月で桂の木伐採役をさせられている。 [→「酉陽雑俎」]

呉剛=月読ということは有りえないだろうが、南島には月の男の伝承があり、禊の感覚とも繋がるところがあるから、月読はそれと同根ではあるまいか。・・・

日本民俗学関係の論文集、ロシア人言語学者(1937年粛清)ニコライ・ネフスキー:「月と不死」平凡社東洋文庫 1971年には、1926年に書き留めた、漲水御嶽で知られる宮古島平良町の伝承話が収載されている。(雑誌「民族」に掲載された自筆日本語文論考。草稿は天理図書館蔵。以下の[]注は無い。)

 昔々大昔・・・始めて人間が住む様になった時の事・・・
 節祭の新夜
[月齢]に、この大地へ、下の島へ
 アカリヤザガマ
[明りき親爺≒アカリヤニザ≒アカナー/赤顔童子]
  御使としてお遣しになつたそうです。
 二つの桶を重そうに担いで来たそうです。
 そして、その一つには変若水
[をちみず]
 今一つの方には死水
[しゅみず]を入れて来ました。
 お月様お天道様のお言附け
(でのこと。)・・・
 
(遠旅で疲れており、小便をしていると)
 一匹の大蛇
[イラブー:土着信仰の神様/古代から燻製食材]が現はれて来て、・・・
 人間に浴びせる変若水を
  ジャブジャブ浴びてしまつてゐたのであります。・・・
 「・・・斯うなつたら仕方がないから、
  死水でも人間に浴せる事にしようか」
 アカリヤザガマが
  非常に心配しながら、天へのぼり、上へのぼつて行つて
  委細の事を申上げると、
 お天道様は大変お怒りになつて・・・
 「・・・宮古の青々としてゐる限り、その桶を担いで永久に立つてをれ」
 ・・・それがため
 アカリヤザガマが
  今もなほお月様の中にゐて桶を担いで立ちはだかつて
  罰せられてゐるとさ。


蛇に浴びせる筈なのに、ヒトに死水を浴びせたという面白い話に仕上がっているが、ネフスキーの解釈では、太平洋民族の民譚に根があると。脱皮による不死の秘法があり、出生等の祝賀では長寿の象徴として祀られることになるそうだ。

そのような蛇的再生儀式は、この禊を期にきれいさっぱり流したというのが「古事記」観であろう。
まるっきりの想像でしかないが、生活空間と遺骸がある墓域を隣り合わせとする風習が消滅したということではないか。墓域は離されることになる。(異常死の場合は特に捨て去ったと思われるが。)
それなりの豊饒な生活ができて、定住できるようになり、墓地を作れた嬉しさはあったものの、伝染病のリスクも高まってきたということかも。
おそらく、墓域での夜間の燐発光現象も度々見ていただろうから、月光に導かれて死霊が墓地で踊るという観念も生まれたであろう。
その結果、速須佐之男命の根の國と、黄泉国の概念的違いが形成されて行くことになる。近隣の墓域で蠢いていた、死んでまもない名前がわかる霊も最終的には遠い出雲の地へと旅立ち名が忘れ去られた霊と一緒になるのであろう。そこは本格的な異界なのである。

【参考:南海の神話例】
ジャワ〜バリには地母神的な月女神Srim[@ヒンドゥー/イスラム以前]信仰が残っており、稲作の神でもあり、そのお遣いは東南アジア全域で見られる鉛色水蛇/Rice paddy snake。
クック諸島では光の神である男神Mangaianの眼は太陽と月。その子Avatea/Vateaは真昼の神で神を生む。

   表紙>
 (C) 2018 RandDManagement.com