[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.12.20] ■■■ [番外-20] 墓制と「古事記」 (15:前方後円墳の消滅) 墳丘中(地表面よりは高い)にお棺を設置する比較的広い"玄室"を設置し、外に通じる出入口に狭くて低い通路(羨道)を造成している前方後円墳がある。一応、墓道に繋がる羨門は板石や積石で封鎖してはいるが、追葬のために開閉可能な状態にしているのである。 中華帝国的な地下帝国的墓制の影響もあろう。それは、黄泉国の描写で暗示されていた訳だが。 さらに、一族の合同墓域を重視する儒教型墓制の影響もありそう。 死生観にかなりの揺らぎがでたと見てもよいのではなかろうか。 前方後円墳は、当初は、後円の墳丘頂部に竪穴を掘り粘土や礫で固め、割石壁と天井石を積む構造だった。粘土等で完全密閉することで結界を作っていた訳である。さらに、円筒埴輪群でさらなる結界を作っていたのである。 建築土木技術的な問題もあったろうが、列石土壙墓時代の思想をママ受け継いだ形態と見ることもできよう。 それがついに捨て去られたのである。 神権政治叙事詩編纂者にとっては、そのような真似事の死生観が持ち込まれたのでは、歌謡のタネを見付けることはできなくなろう。 ほとんど系譜しか記載されていない天皇の時代とは、そういう流れが顕著だったということかも。 とするならば、最終的に前方後円墳を葬り去ったのは、33代 豊御食炊屋比売命ということか。 そんな編集方針で臨んだ太安万侶は、日本に律令政治は定着せずと踏んでいたともいえよう。慧眼の至り。 死生観(霊魂観+他界観+…)を中央の為政者が一律的に決定し、すべての儀式を全面的に規制するなど無理筋ということ。 そんな主張を感じさせる「古事記」が表立って読まれることはおそらくなかったろう。 インテリ層だけが、口外せずに大事に保管していた書の可能性が高い。 一言付け加えておこう。 律令国家化とは、死後も宮廷政治が続くという、死生観のコペルニクス的転回が発生したということでもある。藤原京期の高松塚古墳の四神と星宿の玄室壁画がすべてを物語る。そこには日月像が登場しており、日本の神権政治叙事詩とは水と油の題材である。「古事記」的には、その様な視点で語られかねない事跡を記載する必要性はゼロ。"記紀"として読み進む意味の薄い理由はココにあると言ってもよいだろう。なにせ、「古事記」編纂を命じたのは、言うまでもないが、本格的官僚制度を敷き、律令政治に邁進した天皇なのである。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |