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■■■ 古代の都 [2018.12.23] ■■■
[番外-23] 墓制と「古事記」
(18:多遲摩毛理)

多遲摩毛理の四矛2組の記述についてもう少し考えてみたい。
矛が登場したということは、墓制変更、換言すれば御陵信仰の転換を意味している可能性が高いからだ。

橘の実を採って矛を持って来る間に既に天皇崩御。皇太后と御陵に矛を献その上し、号泣して逝去とあいなる。そこで、橘の実を矛に挿して、皇太后献上の上、天皇陵にも同じモノを、都合、8ツ捧げたのである。・・・という部分にどうしても注目してしまう。つまり、殉死譚になってしまい、はっきり書いていない果物探索に出立する経緯に関心が払われないことになる。そちらのほうが重要であるにもかかわらず。
 天皇 以 三宅連等之祖 名 多遲摩毛理
 遣"常世國" 令求"登岐士玖能迦玖能木實"
 故
  多遲摩毛理遂到其國採其木實
  以縵八縵矛八矛將來之間 天皇既崩
  爾 多遲摩毛理 分縵四縵矛四矛獻于大后
  以縵四縵矛四矛獻置天皇之御陵戸而フ其木實
  叫哭以白
   常世國之登岐士玖能迦玖能木實持參上侍
  遂叫哭死也


多遲摩毛理(但馬国守護者の意味だろう。)は新羅国主の王子の天之日矛の系譜に連なっている。(息長帯比売命も同じ多遅摩比那良岐の系譜。)三宅連(御家/宮の意味があるのだろうか。)の祖と言っても、天皇の臣下にすぎぬから、皇孫のような特別な霊力を持っている人物とは思えない。勿論、神ではないのである。にもかかわらず、天皇の命令で、異界の地たる常世國へ入境できる。しかも、その地に生えている樹木の実を失敬しても、なんのお咎めもなく、殺されずに無事帰国できるのだ。

その実は橘。
照葉常緑樹林帯があるのだから、日本にも類似の柑橘系樹木があった筈だ。いくら日本に無い珍しい果実が渡来したからといって、通説のように、それに不老不死の力があると信じる根拠が余りに薄弱すぎる。と言って、香りが素晴らしいだけで、禁断の地に入れと命令することもなかろうが。(始皇帝が不老不死の薬を求め、蓬莱山に徐福を山東半島の東方の蓬莱山に派遣したとの「史記」の話にのっとているとされてはいるがどうも腑に落ちぬ。)

意味深なのは、登岐士玖能迦玖能木實を奉納した皇太后の御陵名[狹木之寺間陵]が記載されている点。しかも、事績まであり、突然の特別扱い。墳墓の石室造りと埴輪製造を取り仕切る仕組みを作ったのだから、相当な権力。
 其大后比婆須比賣命之時 定 石祝作又定土師部
おそらく、皇太后は、外交的にただならぬ力量を発揮する閨閥出身者。そのため、扱いは天皇並みになったとの話だろう。この時の天皇は、先の天皇とは体質が大きく違い、地場勢力の反発に対応し、出雲の祭祀再興に尽力した。当然の結果として、国家発展のための動きを欠いた訳だ。そんなこともあり、政治の実権は皇后系に移ったということかも。天皇の御陵名も、菅原之御立野中であり、いかにも人里離れた地の雰囲気。中央勢力は天皇を避け、外交に長けた勢力を盛り上げたのであろう。
この結果、ご陵の意味が大きく変わった訳である。

ただ、小生は、この話が、殉死の代替として埴輪装飾を始めたことを意味しているとは見ない。それなら書き方が違う筈で、多遲摩毛理が大后と故天皇に同等に献上するような動きにはなるまい。
埴輪設置ということなら、家型埴輪登場を示唆していると考える方が自然である。死霊は神殿に坐するのではなく、墳頂広場上の統治機構建物で活動しているとのイメージが生まれたと思われるから。(地下神殿イメージを払拭したのである。)無闇に穢れを避ける必要はなくなり、無闇に踏み入れてはならないものの、荘厳な場として必要があれば捧げものを供する場に変った可能性が高い。

   表紙>
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