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■■■ 古代の都 [2018.12.24] ■■■
[番外-24] 墓制と「古事記」
(19:縄文から弥生へ)

「古事記」が死生観の変遷をどう見ていたのか想像しながら、のんびり読んでいると、縄文から弥生への社会の大転換が見えてくるから不思議だ。

まずおことわりしておきたいのは、縄文と弥生に関する教科書の説明は歴史的概念になっていないので、ここでの用語も曖昧きわまるものでしかない。(新しい知見で変わったからという意味ではなく、分析用語でしかなく、概念ではないということ。)

日本列島の古代信仰は、黒潮海人の集落形成期をもって発祥と考えると、それは集落のアイデンティティたる、地理的目印になる山/岩と、開拓者への尊崇とみてよいだろう。[→]そうした英雄を生み出すことが社会の要請でもあり、成人儀式とは人智を超える力を持つ祖先のお眼鏡にかなったか試される場でもある。失敗すれば死しかない厳格なもの。
縄文社会とは、その発展形。日本列島は湿潤なモンスーン気候帯に位置しており、夏季は亜熱帯的で、地勢は箱庭的なバラエティに富んでいるため、豊穣で成熟した社会ができあがったのは間違いない。おそらく、労働時間は少なくても生きていけるから、"余暇"時間だらけだったろう。集落のテリトリーは限定的で変化せず、その地に関する細かな知識の蓄積が進み、状況に合わせた集団作業が一糸乱れず行われる仕組みも出来上がっており、食物はバラエティ富んでいたし、心地よい衣類や厄除装飾品も身につけていたと考えてよかろう。そして、祭祀は長時間にわたり、それは大いなる楽しみでもあった筈。

ただ、このような見かけ"豊穣"な社会が成立するためには、3つの大前提がある。

1つ目は、テリトリーを犯す者に対しては文字通り死力を尽くして戦うことになるという点。従って、周囲との小競り合いは避けられぬが、他地域侵略が成功しても、土着知識を欠くとメリットは小さいのでそこまでは進まない。武力行使のリーダーははっきりしていたろうが、集落の活動は多岐にわたるので、集落支配者という方向には進まない。

2つ目は、テリトリーが限定的なので、集落には飽和人口という点。現代的には、熾烈に映る制限が課せられているのだ。知識を失いかねない姥捨てはありえず、例えば、優秀な長男が皆から祝福されて開拓者を引き連れて集落から離れていくことになろう。社会としては、末子相続の母系制が合いそう。

3つ目は、これが間違い易いところだが、自給自足経済ではなく、交易がなくなればたちどころに破綻するという点。だからこそ、日本列島に日本語圏ができたとも言える。豊穣な生活を約束するのは、交流基盤である。従って、集落で欠かせぬ存在は、自在に、他との交流ができる外向きリーダー。歌垣とは、そのような能力がある子孫を増やすための仕掛けでもあった。内部にいなければ渡来"貴人"でもよいのであり、上記の要件で開放社会には絶対になれないが、文化的閉鎖社会ではなく、新文化に対する興味は旺盛だったのである。
拠点集落も自然と生まれ、交流基盤構築のための祭祀も行われたに違いない。

これと、所謂、弥生文化は全く違う。
労働集約型のモノカルチャー志向であり、基本的には自然環境から生まれたテリトリー意識を駆逐し、水源と耕地を造成した人口環境を所有するというテリトリー意識に染め上げることになるから
弥生文化とは、稲作とか、水田耕作がメルクマールではない。このような意識を持たざるを得なくする、一括した社会運営システムである。
縄文の祖霊とは、地場のアイデンティティの山に座す集落開拓の祖だったが、それは最重要な信仰対象でなくない、社会システムを作り上げたリーダーに変わる訳だ。ここにおいて、首長墳墓の特別視が始まる訳だ。

両者は水と油だが、これが大陸なら問答無用で弥生時代に転換だろう。労働集約的であり、こまかな地域差をもろとのせずに余剰生産の極大化が図れるのだから。しかし、日本のチマチマした地形と、稲作技術が未熟だったせいもあり、両者併存になってしまったのだと思われる。

「古事記」における、この新社会システムの導入は、神産巣日神の子とされる、少名毘古那神の登場が示唆していると見てよいだろう。根本的に思想が異なる既存社会に、渡来の完成形の新システムを導入したのである。
成熟した社会であるから、傾奇者的な"荒ぶる八十神"が蔓延っていたが、首長が統制する整然とした風土へと変わる訳だ。
従って、大国主命が祭祀に重きを置いたのは当然である。
それまでは、祭祀行為の時間としか言いようがない"余暇"時間だらけ。地域毎にその様式も様々で複雑なものだったろう。言ってみれば、生業たる行為にしても、祭祀行為と区別されたものではなく、現代の見方では極めて非効率な儀式行為に当たるだろう。
極限すれば、新システムとは祭祀行為の完全分離である。いわば、"労働"の発生であり、労働時間主体の生活が始まったのである。

これほどに異なる"渡来"の完成形システムが入ったにもかかわらず、社会的動揺は思ったほどではなかったようである。
それは、システムとして導入したから。最初は、ほそぼそとした漁撈以外に使われていなかった低湿地での稲作から。人口飽和社会だから、もともと開拓しか発展の道はなかった訳で、使いようが無い地での開拓の動きに対決する意味は薄かったであろう。
しかし、そうでない地での転換は時間がかかったに違いない。しかし、自給自足体制でない以上、新システムの生産性が高まってくれば転換は自発的に進まざるをえまい。但し、そのシステムは渡来のモノカルチャー依存型そのママではなく、生産活動のバラエティを保った仕組みに変えられていた可能性が高い。

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