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■■■ 古代の都 [2018.12.27] ■■■
[番外-27] 墓制と「古事記」
(22:生大刀)

太刀は反りのある刀で、大刀は直刀なのだそうだ。
言うまでもないが、生大刀は、須佐之男大神が保有する3種神器セットの1つで、他は、生弓矢と天詔琴。
八十~に狙われている大穴牟遲~は、根之堅州国訪問し、須佐之男大神の難題の試験をなんとかパスし、一目惚れした須世理毘賣を背負って逃亡する際にその神器を持ち逃げした訳だ。須佐之男大神も了承するしかなく、その威力のお蔭で平定が進み、大国主命として君臨することができるようになるとのストーリー。(おそらく、父君たる大神の了承を得られたので、須世理毘賣を異界から現世に引っ張ってこれたのだろう。)
須佐之男大~之生大刀
 負其妻須世理毘賣
 即取持 其大~之生大刀與生弓矢及其天詔琴
 而 逃出


 追至黄泉比良坂
 遙望呼謂大穴牟遲~曰
  其汝所持之生大刀生弓矢以
  而 汝庶兄弟者追伏坂之御尾・・・


 故 持其大刀弓 追避其八十~之時
 毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥
 始作國也


根の國こそ魂が生まれる場ということで、"生"という接頭語が神器名に付くのたろうが、まぎれもなき王権を象徴するレガリアである。
ただ、出雲大社・杵築大社には残存していないようである。たとえ物理的に消滅しても、類似品を造り魂入れすれば神器として通用するのだから、あってもよさそうに思うが、出雲勢力に持たせておくのは反乱を招きかねないからそうはさせなかったということか。伝承によれば、勅命で美具久留御魂神社@富田林に生大刀・生弓矢が勘定されたとのこと。天詔琴もどこかに奉納させられたに違いなかろうが、焼失したのだろう。

ともあれ生大刀は神器なのだから、出雲勢力の影響下にある地域の首長クラスの副葬品にレプリカ大刀が必ず含まれるのは当然と言えよう。マ、金属器は貴重だったから、それを保有するだけでも首長身分を示すことになったのだろうが、大刀は格別な存在だったろう。

もちろん、阿遲志貴高日子根~が怒って喪屋を壊した~度劒も大刀である。地名の出雲国神門(しんど)を示すもので、大穴持命がここの土着一族の姫を娶って毎朝通った場所である。(「出雲國風土記」)
阿遲志貴高日子根~の十掬劒/大量/~度劒
 於是 阿遲志貴高日子根~ 大怒曰
 我者愛友故弔來耳 何吾比穢死人 云
 而 拔所御佩之十掬劒 切伏其喪屋 以足蹶離
 遣此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也
 其持所切大刀名謂大量 亦名謂~度劒


おそらく、大刀レガリア感覚は大陸からの渡来思想。

大陸では夏・殷・周の時代から、支配者は「王」と称されていたらしいが、もちろん、甲骨文上では殷代からになる。最初の王権象徴器(レガリア)は鉞だったようだ。この文字は、殷で用いられていた斬首刑具としての斧の象形。実物は、黄金装飾青銅器。殷代遺跡にはないようだが、周代になると副葬品として剣が出土してくる。周王の権威が落ち、楚・呉・越といった王権が勃興し、レガリアは剣に決まったようである。
その後、秦になると官僚組織運営上不可欠な玉璽が権力行使用の用具となる。文章統制上階層別印鑑が不可欠ということで、信仰と言うよりは実用的なものだが。
そういう意味では、多分、九鼎(九州の象徴)が精神的なレガリアなのだろうし、それなりに剣も重視されていたに違いない。
こうした流れは、中原の政治抗争から見たもの。

それとは別な流れもあるようだ。遼寧半島近辺でも有心棒デザインの銅剣が生まれているからだ。遊牧中心社会なので、曲線的刃にしたかったようだ。当然ながら、ツングース系であり、その社会のレガリアだった可能性が高い。
(小中華思想に染まっている上に長白山帰属問題もあり、現代朝鮮では、半島北方〜中国東北部のツングース系社会も朝鮮と見なすことが多いので、注意が必要。半島北部の漢 楽浪郡の文化が半島南部に伝わらずに直接日本列島に渡来する場合もあるのだから。古代の朝鮮半島は、宗族主義下の"ハングル朝鮮"で統一されていた訳ではない。少なくとも、ツングースの北部、中華帝国の言う山東半島対岸の倭族系が住む地域/多島海、済州島の3地域は文化的系譜が全く異なる。"ハングル朝鮮"以前に、小中華帝国としてまとめられたことも一度もない。従って、現代のそれらの地域の住民は古代と同一とは限らない。例えば、百済の支配者階層のほとんどは日本に高級難民として渡来し同化した筈である。済州島の土着文化は絶滅した。もっとも、"ハングル朝鮮"の母体と思われる南東側発祥の新羅からの渡来人も日本全国に分布している訳だが。)
中華帝国本流タイプではなく、このツングースタイプが、九州北部の甕棺墓定番副葬品の細型銅剣につながっていると見られている。
尚、琵琶形銅剣は、遼河地域の紅山文化発祥(6200年前:櫛目文土器+龍の翡翠玉)の銅剣とほぼ共通デザインである。
しかし、楚・呉・越からの、レガリア文化が渡来しなかった理由は考え付かぬから、日本列島への銅剣文化伝来ルートは錯綜していると考えた方がよさそう。

マ、中原にしても、遼東辺りのツングース勢力にしても、元を辿れば、聖書に登場する、ユーラシア遊牧民族スキタイ人の剣信仰だったりする訳で。
スキタイ人は、結局のところ、ロシア南部〜ウクライナのステップ地域に落ちついたようで、紀元前8世紀頃の墳丘墓を残している。そこからは、黄金系副葬品に加え、大量の供犠品と殉死遺骸が出土している。広大な遊牧テリトリーを確保し、金属器製造拠点を確保するためには、武器が王権維持の核だったのは当たり前だし、魔術的シャマニズムの社会だったらしいから、剣のレガリア化は自然な流れだろう。
(西欧では、ヘロドトスが記載した、髑髏で乾杯する残忍な民族とされ、有名だが、以後の消息は不明。)

【注】
「古事記」は全く触れていないが、星信仰の神剣がある。渡来した宗教観に基づくものである。大陸の王のレガリアには、そのタイプが多いかも知れぬ。・・・
石上神宮に所蔵されている"七枝刀"が典型。主身左右に各3本の枝刃が付く鉾様の銘文剣。(「日本書紀」には百済肖古王献上との記載あり。)
稲荷山遺跡から七星剣(鉄)出土。
四天王寺所蔵の聖徳太子佩刀とされるのが七星剣(鉄)と丙子椒林剣(直刀)。幼少期の守り刀とされる七星剣(銅)と増長天像剣は法隆寺所蔵。
七星剣は正倉院にも所蔵されている。現在は、呉竹鞘御杖刀のみのようだだが、原本では8本あったらしい。
土着信仰を寄せ集めて成立したように映る道教だが、星信仰が組み込まれているのは御承知の通り。道士の修行に剣と鏡が用いられるが、基本的役割は辟邪である。副葬品でもあり、被埋葬者は、神仙の地位に応じて方術を駆使し(飛天・隠遁・尸解)昇天することになる。尸解の場合、屍の代替品として残るのが剣となる訳だ。
そんなところから、夏禹王は二十八宿の剣を持っていたとの話が生まれたようである。王は、その手の剣を持つことになっていたということでもあろう。
呉国上將軍となった伍子胥の楚からの逃亡した際の長江の渡しにおける話で登場するのが七星龍淵剣。「是楚王賜給我祖父的」「此劍中有七星 價直百金」。
この時代、数々の剣伝説が語られていたようだ。(名工 欧冶子が作った越王允常[n.a.-B.C.496年]の"仁者無敵"の湛慮剣。巨大な晋の攻撃をかわすことができた楚の宝剣 太阿剣/泰阿剣。等々。)
日本列島に伝わっていない筈がなかろう。


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