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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.11] ■■■
[10] 出雲の国名由緒が不明瞭
日本の各地の國名由来はたいていは曖昧。いかにも後付けとしか思えないような説明も多い。
現代に入ってからも、大々的な名称変更は行われているが、多くの場合、名称決定ルールはあってなきが如きで、当事者はそう思ってはいないが、ほとんど場当たり的。
一部、権力者への忖度が入るものの、文句が一番少なくて済むことを優先していそう。
そんな風土であるから、昔の地名由来を探ることは、結構、楽しみになっているようだ。

"出雲"についても同じことが言えるのだろう。

この地の場合、それなりの情報があるにもかかわらず、と言うか、だからこそかえってわからないという状況。

先ず、"出雲"の読みだが、以豆毛/イツモであることがはっきりしている。[「和名抄」巻5国郡部第12山陰国第56出雲]「古事記」表記では伊豆毛だし。

そして、地名発祥地についても、先ず間違いなく、出雲國出雲郡出雲@斐伊川東岸河口域ということもわかっている。

にもかかわらず、様々な見方が並列的に存在している。
  <祭祀対象>
【雲】
 伊傳久毛⇒伊豆毛⇒出雲・・・本居宣長「古事記傳」
 厳雲・・・吉田東伍「大日本地名辞書」
  〃・・・82代出雲国造千家尊統
【藻】
 厳藻・・・松岡静雄
  〃・・・水野祐
 厳藻掛け・・・長浜神社@西園上長浜の神事
【崖】
 厳面・・・"神須佐乃袁命天壁立廻坐之"@「出雲國風土記」安来郷
  <アイヌ語>
【岬】…紀伊国潮ノ岬半島の地名にも存在
 エツ・モイ(=岬+入江)・・・小川琢治
 エンムル⇒イツモ・・・金田一京助
  <転訛>
【霊主も】・・・日本地名研究者 鏡味完二
【夕つ方】・・・白鳥庫吉(東国"アヅマ:朝つ方"の対)
【出づも】・・・山岡浚明
【威端/イツマ・・・アイヌ語でなくとも、ということか。
  <八束水臣津野命の国造り>
【五面】・・・地理学者藤田元春

上記では、【雲】と【五面】以外は「出雲國風土記」の記載を否定しており、勝手な想像と言わざるを得ない。冒頭に國名由来譚が記載されているからだ。
  出雲と号くる所以は、
  八束水臣津野命、詔りたまひしく
  "八雲立つ"と詔りたまひき。
  故、八雲立つ出雲と云う。 「出雲國風土記」
ただ、さっぱり要領を得ない。話自体はわかるものの、何故に"出雲"と呼ばれるかが全く分からないからである。
ともあれ、その核となっているのが原形和歌であり、詠み手は違うが、「古事記」に登場する。・・・
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
  八重垣つくる その八重垣を [須佐之男命]

国引きをした神名から八束雲ということで地名がヤクモとなるとか、歌が五雲/イツクモでイヅモとなったというならわかるが、ここまで八に拘られると、どういうことか皆目わからない。
それに、八はどうも単なる寿ぎの聖数という以上でもなさそうだし。出雲國は意宇郡〜大原郡の9郡構成だからだ。
【五面】は国引き情景での4+1国を示すことになるのだろうが、無理矢理の印象は否めまい。

そうなると、8を無視して、"雲立つ"という点に注目する以外になく、【出雲】とする気分はわかるが、出雲国に特徴的な雲が発生することがあるとも思えない。瑞雲と八重垣の情景も全く浮かんでこない。
これは違う、と思う人が出るのは致し方なかろう。

この話、ここで、"残念ながら、分からぬネ〜。"で終えたいのではない。
独自の解釈などするつもりもなく、太安万侶流で考えれば、どういうことになるか書いておこうというだけ。

難しいことではない。

国名だが、それは出雲郷の名前を当てたからに過ぎない。
その場所は国引き情景にはそぐわないし、崖や水面の藻が相応しい地とは思えない。沖積地以上ではないからだ。
もちろん揖斐川の河口部に当たる訳で、須佐之男命が遠呂智退治で妻を娶ってこの地に留まることになった切欠を彷彿させるものがある。
当初の状況と違い、ここまで大きくなったことに感慨を覚えるといったところでは。

当初は、ほそぼそとした民が山がちの狭隘な平坦地で生きるだけで、治水もままならずといった状況だったが、次第に出雲郷を中心とした広い地域が農耕適地化したということだろう。

川筋も変り、宍道湖が内海化していくことが知られているが、そのメルクマールが出雲郷の一大変化なのではあるまいか。
日本海海人の観点なら、恐ろしい雲が発生したとなるが、そんな気象が続くことで海流が運ぶ砂が溜まって河口が埋まって行ったのであろう。お蔭で、川の流れが変わり上流からの土砂が一気に貯まってしまい、沖積平野が生まれたのである。
出雲外では瑞雲どころではないが、この地だけは違っており、冬場の強い潮流で砂が溜まっていくことが、とてつもなく嬉しい情景だったということ。
つまり、この歌は、「出雲國風土記」の核である東部の意宇郡〜海側の半島部の郡を詠んだのではないということ。
半島西部の海と、潮が運ぶ砂浜によって流れが内海へと進んで沖積平野を造り出した揖斐川の情景を寿いだことになろう。
西部は鉄器時代で、東部は銅器時代という風に分けることもできるかも。
従って、この歌は、須佐之男命が詠んでこそ意味があるといえよう。
【出雲国東西問題について】阿太加夜神社@松江東出雲出雲郷(主祭神:阿陀加夜奴志多岐喜比賣)の地名は出雲と表記されるが、読みは、ご祭神に合わせた「あだかえ」である。この御祭神は「古事記」には登場しないが「出雲國風土記」神門郡多伎郷に所造天下大神の御子が鎮座されていると記載されている。出雲国西にある多吉/多支社のことである。1638年創建の松江城内の稲荷神社と共同で行う「ホーランエンヤ」という10年毎の有名な船神神事があるためか、この神は、名前から、宗像3女神の多紀理毘売命とされたり、安羅伽耶の女王と見なされたりしているようだ。・・・この事象が示すのは、政治的中心はあくまでも東であり、西は代表ではなかったという点。つまり、西は沖積平野を得たが河口部の港湾機能を失ってしまったということ。ただ、出雲大社の灯台的役割は継続したことになろう。

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