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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.15] ■■■
[14] 「王年代紀」有難きかつ意義なし
思うに、正式国交を断絶した後、第一線で活躍中の知識人は、中華帝国の史書とは、特定の歴史観に合わせて作り上げたもので、都合の悪いものは削除あるいは改竄されていると見ていたに違いない。
それが合理的対処を旨とする儒教社会の定め、との認識で。

と言っても、代替の書は存在しないし、整合性を重視した編纂であるから、そう簡単に誤謬を指摘することもできない。従って、記載事績を肯定する以外に対処のしようがないのである。

江南の地と交流が深い海人達を大勢抱えこんでいる社会だから、インターナショナルなセンスがあれば、そんなことは百も承知。
史書はご用心なのである。
史書に下手に記載でもされて、敵と見なされたり、利用価値なき部族と判定されれば、遠からず消滅の憂き目に合う可能性もある。従って、どのような部族かを伝える場合は十分注意してかかる必要がある。もちろん、メリットがあれば当座厚遇されるが、どの道、いいとこどりされた後に、神話や伝承のすべてが抹消され、帝国に吸収されていくことになる。
・・・それを知っていて、なんでも正直に中華帝国に申し上げるほど能天気な為政者がいる訳がない。

中華帝国に見せるための書なら、それ相応の対処がなされるのである。「宋史」で日本の書「年代紀」が引用記載されているが、本邦には欠片さえも残存していないし、以後、注目されてもいない。小生は、それで十分と思う。
正式国交がなく、天子と官僚に読んでもらうための"紀"をわざわざ作って、私的使節が持参渡宋したのが明らかだからだ。
と言うのは、"尊"という用語が使われており、中華帝国的視点での編纂と詠っているも同然なのだ。尊とは単なる尊称でしかなく、言葉に拘る太安万侶が使った場合は、その程度の扱いで十分との意思表示になってしまう。大神からの委託を受けていることが多いから普通は命である。一般的表現ならシンプルに神となる。
つまり、この「年代紀」と比較すれば、「古事記」の考え方がはっきりと見えてくることになる。日本国王の系譜が万世一系であることを伝えたかっただろうから、両者の違いが歴然としてくるだろう。実際、冒頭は同じかと思いきや、なのである。
  "初主號天御中主。次曰天村雲尊,・・・"
比べると面白い。「古事記」の取り上げ方はゴチャゴチャ感で満ち溢れているからだ。異文化の習合・離反のなかで、雑炊的にまとまって行こうとのパトスのお蔭で、国として1つにまとまっていると看破したようなもの。それが気にくわず、時として、天子独裁-官僚統治スタイルを真似したい人も出ることもあるが、大勢としては、それを避けて来た政治風土ということ。

この最大の史書たる、脫脫 等:「宋史」1345年@元代巻四百九十一 列伝第二百五十 外國七日本國で引用されているのは「然:「王年代紀」。
「然/法済大師[938-1016年@京都 藤原真連の子→東大寺僧@東南院(三論宗)]は983年入宋し巡礼(浙江台州⇒天台山・蘇州・楊州⇒首都[開封])。国賓として、宋の第二代皇帝太宗に拝謁。「王年代紀」等を献上。紫衣・法済大師号、さらに大蔵経を授与され、五台山・白馬寺@洛陽・龍門石窟等の名勝地参詣。986年帰国。[「「然在唐記」]987年清涼寺@嵯峨の建立認可を得るものの比叡山の反対で取り消し。989年東大寺別当。

「然が著者かはなんとも言い難しだし、成立年もわからぬが、日本書紀を眺め、直系系譜をつくりあげた書であることは間違いなさそう。そのような書を勝手に持ち出したり、作成するなどもっての他だから、官僚の強い後押しがあったのも確実。
つまり、中華帝国から見て正統王朝史に見えるような系譜を作成した訳だ。
従って、先ずは道教的であることを示し、ヒエラルキーと男系直系血族統治体制であることを強調する儒教的記載になる。日本感覚では、それは潤色を通り越し、創作となるが、儒教に染まっている中華帝国の人々から見れば、それこそが"事実"。ゴチャゴチャしているのなら、そこに"嘘"が取り込まれているように映るから致し方あるまい。
ただ、そのお蔭で、全体構成が至極わかりやすい。"神倭伊波礼毘古命[自伊下五字以音]"ではなく、儒教のポリシーに従って、官僚が規格統一した表記"神武天皇"に替えられた書の方が読み易いのと同じこと。
それはともかく、「王年代紀」は、中華帝国的な歴史の体系記載の肝を分かっている人が編纂していることは間違いない。それは、太安万侶が個人としては一番嫌った記載の仕方だろう。しかし、その一方で、もしも一官僚としてこの時代に生きていたなら、こうした構成での新版編纂に、諸手を挙げて賛成した筈。それが知識人というもの。
 (天)⇒(地)⇒(國神)⇒(祖神)⇒(天孫系譜)

「古事記」と比べると、考え方の差がはっきりわかる。・・・
  左側が:㊥「宋史」での尊名。右側の丸数字が㊐「古事記」登場順の神々。
 _____<㊐別天~5柱>(㊥天)
□天御中主尊①天之御中主~@高天原
2 天村雲尊…(②高御産巣日~@高天原)
3 天八重雲尊…(③神産巣日~@高天原)
 _____…④宇摩志阿斯訶備比古遲~《❷》
 _____…⑤天之常立~《❶》
4 天彌聞尊
5 天忍勝尊
天御中主尊〜天忍勝尊は天神。理屈からすれば、《❶》《❷》で十分だと思うが、ここの別天~5柱の存在は譲れないところだし、筆頭神を改める訳にもいかないということか。高天原の神こと、造化3神というイメージを消し、《❶》=①に見えるようにしたことになる。
道教と同じく、最高神が存在することを示した訳だ。そして、中華帝国で瑞兆神威を意味する"雲"を興す神名に変えている。
〇「古事記」では、ほぼ高木神/高御産巣日神が命じたように映る天孫降臨時に、天照大御神が邇邇藝命に八俣大蛇退治由来の草那藝剣が授与される。これが、高木神命とする「日本書紀」の注記で天叢雲剣との名称になっている。
〇八重雲は降臨シーンの肝でもあるし。・・・「古事記」:離天之石位 押分天之八重多那[此二字以音]雲 「日本書紀」:皇孫乃離天磐座 且排分天八重雲
〇村雲も八雲も速須佐之男命の地での活躍を支えた神ということかもしれない。

高御産巣日~=「日本書紀」高皇産霊尊とすれば、この神を系譜から外せないことも大きい。・・・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。娶高皇産霊尊之女栲幡千千姫。生天津彦彦火瓊瓊杵尊。故皇祖高皇産霊尊。
一方、日本独自性の肝である宇摩志阿斯訶備比古遲~は、どのような神かと質問されると答えるに厄介ということで外したようだ。
(神名に接頭語のように、すべて天を配したのは秀逸。天神5柱の次に地神が続くという構成であることが一目瞭然だからだ。その後に続く国神で天が付くことがあるが、依り代性というか、天と交信する神の位置付けに映るし、天皇・臣での天とは、たまたま当て字で聖職的な姓として表記しているだけと説明できる訳で。)

ここで突然に変わる。神世七代に当たる箇所だが、大胆な編成替え。
 _____<㊐−>(㊥地)
6 瞻波尊
7 萬魂尊
8 利利魂尊…(⑫意富斗能地~+⑬大斗乃辨~)
9 國狹槌尊…大山津見神の子:天之狭土神・国之狭土神
□角龔魂尊⑩角杙尊+⑪活杙
□汲津丹尊⑧宇比地邇~+⑨須比智邇~
□面垂見尊⑭於母蛇流~+⑮阿夜訶志古泥~
天の次は地である。
自然神が並ぶことになる。そのため、國常立の後に並んでいた神々を記載するしかなく、「古事記」での順序が大幅に入れ替えられることになる。
しかも儒教の地では、系譜は男系。婚姻とはあくまでも宗族のためのもので、系譜に記載する必要は無いので、記載の仕方も大きく変わってくる。対偶神などもってのほか。

天と地が揃ったところで、いよいよ、國常立の世界に入ることになる。王権の誕生だ。
「日本書紀」だと天地開闢から、間髪いれずに、すぐにこの世界に入る。ゴタつきかねない面倒な箇所は捨象するに限るということだろう。

「古事記」では、國常立の後に自然神が生まれていく。これこそが、倭の観念と言わんばかりに。
男女の営みの如くに環境が創られていくことを重視するのだが、それは自然のなかにヒトも含まれているからだろう。中華帝国のように、自然を対象物としていると、自然が完成してからでないと、ヒトの営みが始まらない。太安万侶はそれに気付いていたことがよくわかる。序文で、道教流入と高々と宣言しているが、本文ではそれは見かけで実は違うと書いているようなもの。日本的習合の典型を見せてくれたと言ってもよいだろう。
 _____<㊐2独神+5対神>(㊥國神)
□國常立尊 【国常立尊】国之常立神《❸》
 __________…⑦豐雲神
14天鑒尊 【天鏡尊】
15天萬尊 【天万尊】
16沫名杵尊 【沫蕩尊】 …(沫那芸神)
□伊奘諾尊 【伊奘諾尊】伊邪那岐神《❹&−1》 +⑰伊邪那美~
   【日本書紀神代七代一書第二】…実血統的記載書
このパートが実に面白い。
「王年代紀」は冒頭での5神で、数に拘っているようなので、伊奘諾尊の記載順序は、「古事記」の⑯伊邪那岐神・⑰伊邪那美~の数字に合わせた"16"だろうと想像していたら、"17"だった。数字はどうでもよいのだが、成程感を覚えた。この國神パートは13國常立尊〜16沫名杵尊であり、17伊奘諾尊は次の祖神パートの筆頭という構成なのだ。国生みや神生みは、自然形成と王国創出に分断されてしまったのである。

「古事記」では、国常立とは、ヒトの国家形成を意識しておらず、ヒト社会を含む国土形成を意味していそう。地殻変動を経験している上、箱庭のような地勢の島国だから、広大な大陸の感覚との違いは小さなものではなさそう。伊邪那岐神と伊邪那美~が登場して、一地域で、ヒトの社会組織が形成されていくようになったとの感慨は大陸では生まれないのだろう。
大陸的感覚から言えば、ここらは民族的大移動に当たるのかも。初めから、部族=王国ありきなのだろう。従って、ここらの記載は、「然にとっては、思案のしどころといったところか。
「古事記」ベースだと、国之常立神⇒伊邪那岐神とならざるを得ない訳で。
そこで、「日本書紀」の別書記載を引用したのだと思われる。この部分は一大特徴があり、神が産まれていくイメージがある。直系系譜記載にピタリなのだ。

さて、ここで、いよいよ3貴神の出番。思った通り、月讀命は登場しない。
 _____<㊐3貴神>(㊥祖神)
□素戔烏尊⑳速須佐之男命《0》
□天照大神尊⑱天照大御神《1》
 _____…⑲月讀命
系譜的には、18素戔烏尊"王"⇒19天照大神尊"王"という継承がなされたことになる。読み方によっては、17伊奘諾尊"王"も18素戔烏尊"王"も、廃位・蟄居させられことになろう。(鳴ならわかるが、太陽を運ぶ烏になっている。)
そして19天照大神尊が王権掌握。
従って、ここでの素戔烏尊・天照大神尊の関係は微妙なものがあろう。儒教ベースの中華帝国型男系譜記載とすれば、速須佐之男命と天照大御神は弟姉ではありえず、弟から兄への皇位継承を示すことになるからだ。文化的な溝は深い。

ここからは所謂天孫系譜。上記にママ繋がる一直線系譜となる。
日本では、王朝転覆の革命が発生することなど無いのである。もちろん、このドグマが中華帝国で通用する訳はなく、全く持って理解不能だから、せいぜいが驚嘆してみせる位。
 _____<㊐㊥天孫系譜>
□正哉吾勝速日天押穗耳尊㉑正勝吾勝勝速日天忍穂耳命《2》
□天彥尊㉒日子番能邇邇芸命《3》
□炎尊㉓火遠理命/山佐知毘古/天津日高日子穂穂手見命《4》
□彥瀲尊㉔天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命《5》
[彥瀲第4子]神武天皇㉕神倭伊波礼毘古命《6:初代天皇》

10世紀の本朝の官僚からすると、歴史記載は上記のような天御中主尊〜神武天皇とすべしと考えていてもおかしくない。「日本書紀」は忖度だらけ、ということで。「古事記」に至っては、錯綜しゴチャゴチャとした情報寄せ集めの書と見ていた可能性さえ。
歴史観とはそのようなもの。

蛇足だが、「今昔物語集」の編纂者も東大寺にたまたま残っていた「王年代紀」に目を通した可能性があり、中華帝国に合わせて抜本的に編纂し直した、その知性のレベルに感銘を覚えておかしくなかろう。三国を語る重要性に気付かされたろう。同時に、本朝国史の巻は"空"が似つかわしいと考えたかも。

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