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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.23] ■■■
[22] 稗田阿礼登場の意義
学者の見解とは、180度違うのかもしれないが、素人なら、こう考えるべしとの自説を書いておきたい。
イデオロギーに染まる人達とは一線を画すべし、ということで。

と言っても、単純な話。

ココの記述は信用できぬとの主張をしておきながら、他に資料もないから致し方ないとはいえ、そんな書籍の情報を用いて歴史を語るからだ。構築済のシナリオに当て嵌めない限り、こんなことができるとは思えない。

ネットでよく見かけるが、「日本書紀」の"幾つかの"引用書と一致していると、その記述は確からしいと考える人も少なくないようだ。理科系の科学の常識とは正反対な論旨なので、違和感を覚える。
出鱈目書籍と認定したのなら、この箇所では、違ったことを言うのがはばかられた、あるいは、面倒なので内容をコピーした、と解釈することになるからだ。
それに、なんだかわからぬままでの母集団の単純分析もどうかと思う。(例えば、効いたからといって、薬として認定される訳ではない。どういう人に効いたかを明確に述べ、どうして効くかの仮説が不可欠。論理を欠く言説では、そもそも議論が成り立たないからである。)

・・・このようなつまらぬことを敢えて言わねばならないと思ったのは、稗田阿礼軽視の姿勢がみられるから。これは重大事と感じたのである。

天子-官僚の文書統治国家主義者や、経典宗教勢力から見れば、"語り部"は煩わしい存在なのは自明。それはわかるが、どうもそういうことではなさそうなのだ。
"神話は大衆の物"というドグマに反する存在に映るようで、できる限り軽視しようという姿勢としか思えない言説が結構横行していそう。コレ、旧ソ連の学者や毛沢東主義者がふりまいた思想と違うか。

小生は、古代の村落共同体には、叙事詩を司る覡/巫師[男性]が存在していたと考えている。共同体の神話を伝承してきたのは大衆ではなく、専門家である。大衆は、そのような人の話を聞いて育ったにすぎない。逆は、ありえない。
そのような専門家とは、現代で言えば、学業成績が飛び抜けているが、自閉スペクトラム症(アスペルガー)的といった人に当たるだろう。(どんな社会でも、どうしてかわからぬが、このような天才が存在することが知られている。)常識では考えられない記憶能力を持つ人であり、特別視されるが、文字・記憶媒体ができてしまうと、単なる「変わり者」として扱われがちだ。

文字社会になってしまうと、稗田阿礼のような能才は居場所を失ってしまい、叙事詩は無くなっていくのである。
太安万侶はそれに気付いていたからこそ、稗田阿礼について書き残す必要があると考えたのだと思う。
  時有舎人。
  姓稗田、名阿礼、年是二十八。
  為人聡明、度目誦口、払耳勒心。
  即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。
 [「古事記」序文]

当たり前だが、文字記録の史書に稗田阿礼の名前が掲載される訳がない。
「古事記」は、太安万侶の歴史観発露の書であると同時に、残しておきたかった叙事詩そのものということ。本来的には、「古事記」は口誦して欲しい書。だからこそ、読み方に拘りがあるし、人名に至ってはママを大事にしているのだ。

そう考えると、「古事記」の終盤が系譜だけになってしまったのは、それこそが"語り部"の実態を意味している可能性が高い。
天皇の事績はすべて文書化されてしまい、記憶無用となったと言うこと。そして、それも[33代]推古天皇迄。
沼名倉太玉敷命[敏達]天皇の系譜に、[34代]天皇@岡本宮がそれとなく記載されているところを見ると📖他田宮、語り部としての本来業務は[34代]天皇が廃止したことを示唆しているとも思えてくる。

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