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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.2] ■■■
[32] "紀"との混淆は無意味だが比較には意義あり
小生は、「古事記」解説書にできる限り触れないようにしているが、その理由は単純で、たいていは"記紀によると"という記述スタイルだから。
別に、「日本書紀」嫌な訳ではなく、それは史書だからというに過ぎない。わかり易く言えば、叙事詩と史書をごちゃ混ぜで読む気にならないということ。ただ、そのような人は少数派。(「記紀」とは、両者共に公開史書と見なした用語だろう。)
逆に、史書で時代変遷を眺めたいなら、古事記を参考にしても、専門家以外にとっては、混乱をきたすだけでたいした意味はなかろう。

小生は、両書の違いは歴然としていると見る。「古事記」とは、太安万侶が編纂した、語り部が伝承してきた"叙事詩"としか思えないからだ。そして、そこには太安万侶の歴史観が籠められており、太安万侶との精神交流の面白さを味わうことができる書なのだ。
その楽しみを棄ててまで、わざわざ「記紀」として読む気にはならないのである。

と言っても、史書を参考にすると、見えて来るものは少なくない。全く異なる箇所があるからだ。そうなるのは、太安万侶が、あえて異なる見解を示したり、方法論の違いを際立たせたからとしか思えない。従って、そこから、太安万侶の歴史観が自然に見えてくることになる。

と言うことで、ここで「紀」を眺め、「記」との違いを確認しておこう。・・・

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  朝廷が作成した初の公的な史書であることをご存じない方は、成立時点から現代迄、稀だろう。
  現代では、遍く、その名前が知られている。ところが、平安期も、それ以前も、「古事記」という書が存在したと言えそうな記録は発見されていないらしい。(太安万侶の多家に「古事記」があったという記載は存在するが。)言うまでもないが、「日本書紀」が引用する"一書"に該当している訳ではないし、「続日本紀」和銅年代にも、その存在を示唆する記述が無い。
 ・・・「古事記」は、極めて限定された読者用に作られた書ということになろう。一般公開するからこそ意味がある史書とは、目的が全く異なる。
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  天武十年(681年)三月丙戌の詔勅で始まり、12名が39年を要して完成させたことになる。(「続日本紀」に「日本紀」30巻系図1巻撰上とある。)
  序文によれば、天武詔勅とされているが、年月の記載はない。こちらは、元原稿すべてを、すでに、天才的な語り部(稗田阿礼)が記憶していたため、僅か4ヶ月で書に纏めることができたことになる。
 ・・・常識的に見て、史書編纂プロジェクトを2つ同時に始めよと命令を下す為政者がいる筈がない。どのような指示だったのかはわからないが、お言葉を勝手に解釈したと見るのが妥当だろう。その気分が伝わるように書いてあるからだが。(伝承を暗記させたので、その口誦を文字化せよとの命だろう。)
太安万侶は公的な「史書」編纂にも関わっていたに違いなく、史書成立の暁には、異なる伝承の史書的書物は抹消されるし、語り部はなくなる寸前だから、考え抜いた末に急遽作成したと考えられる。
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  序文・上表文は無い。
  序文とされているが、書そのものに属す文体ではなく、臣下が皇帝に文書を奉る、震旦型の"表"文形式で書かれている。
 ・・・史書でありながら、経緯は不明。実に不可思議と言わざるを得まい。ところが、内容的に史書的に映るが、非史書である太安万侶の書には由来が記載されている。逆転状況。
これは、公的史書の内容について皇族内で紛糾したことを意味しているかも。「唐書」に新と旧があるが如きの、ただならぬ事態に直面した可能性もなきにしもあらず。このことは、史書が成立しても、すぐに定着できず、妥協的な改訂が行われてもおかしくない。そうなると、経緯云々はタブーとなる。
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  天武天皇紀(巻二十九)に稗田阿礼は登場しない。
  十年(681年)三月庚午朔癸酉・・・
  令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。

  序文によれば、天皇が碑田阿礼に帝記・旧辞を誦習させている。
 ・・・稗田阿礼は仮名の可能性もあるし、政権から排除された有名人物の別名かも。もっとも、いくら天才であっても無位なら、公的史書に記載される道理はないが。そもそも、史書では、「古事記」が存在していないことにしているようだから、なんともいえぬが。
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  矛盾なきよう、年代順に、天皇に関係する事績情報をできる限り網羅している。(「史書」の大原則。基本骨格は、あくまでも年代記。国家統治の根幹的書でもあるから、その方針に沿って、情報は取捨選択の上で、添削され収録される。しかし、その元情報や、異なる内容の書は、公的書として成立すれば抹消することになる。従って、史書以上の情報が他のソースから得られる可能性は限りなく低い。)
国家的一大プロジェクトである。(成立時点の政治的インパクトを考慮した編集になるから、それを踏まえての編纂者指名となる。)ただ、史書作成の大原則を破って、異なる内容の伝が存在していることを註記として収載している。
  収録の"歴史的"事績は物語調。
 ・・・叙事詩といっても事績を描いている以上、公的「史書」以外は禁書との掟に触れかねない。抹消されないよう工夫するしかなかろう。(中華帝国では神話は消されてしまった。「古事記」が無ければ、本朝も同じ道を歩むことになったと考えるべきだろう。)
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  公式な書であるから漢文。
  本文も、表記文字は漢字だが、表音文字として用いているにすぎず、文章は和文。但し、序文だけは漢文である。
 ・・・公文書は、唯一確定している文語の漢文を使うことになる。他に選択肢はない。ただ、和歌は、五七表現や同音異義語使用のため、漢文化は困難であるのは自明。しかし、和歌を無視する訳にもいかないから、史書にも和歌は収録されているが、その数は「古事記」とほとんどかわらない。
「古事記」では、文字記録せず、口誦伝承を大事にしてきた伝統に従った記載ともいえる。本朝が培ってきた文化を大事にしたいということで、文字に残しておきたかったのだろう。当然ながら、漢名的表現は回避。
上出来の漢文の序文をつけたのは、本文がお遊び的に書かれた文章ではなく、質が高いことを保証するためでもあろう。
(音韻については、「記」は精緻な表記方法とされている。音への拘りがあるから当然の編纂方針と言えよう。一方、「紀」で部分的に存在する発音表示は、一部乱れがあるらしい。渡来人による翻訳なのだろう。おそらく、前者は呉音、後者は唐音。)
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  系図については、事績とは別途記載の方針。
  系譜ではあるものの、物語的意味付けで記載しているようにも思える。
 ・・・両者の不一致は少なくない。片方のみでの記載もある。氏族の実情をわかっていると、収載・非収録の意思決定の背景も読み取れるのかもしれないが、素人には無理である。公的系譜は各氏族のヒエラルキー上の位置付けの基本となるからだ。方々から圧力がかかったに違いなく、史書では、慎重な考慮を踏まえた、記載にならざるを得まい。
太安万侶は、比較にすぎないが、より自由な立場で記載できた筈。そのためと言えるかは、わからぬものの、その時点での統治の全体状況が見えるように記載しているように見える。
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  奏上は、[40]天武天皇の皇子 舎人親王が720年に天武天皇の孫[44]元正天皇に対して。編纂者には、[38]天智天皇の皇子も入っている。
  奏上は、太安万侶が712年に天武天皇皇子の草壁皇子の妃[43]元明天皇に対して。
 ・・・皇子・皇女の数は多く、継承がスムースに行く筈もない。史書編纂は一筋縄ではいくまい。一方。「古事記」は女帝に気に入ってもらえるような内容ならそれでОKであろう。
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  30巻構成で1〜2巻が非天皇記。3巻が神武紀となる。
  上中下の3巻のうち、上巻は非天皇記。
 ・・・神代とされる部分への注力姿勢が全く異なる。必要最小限に留める方針と、本朝風土の源泉を語りたいとの意向の違いが出たと見てよかろう。
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  [41]持統天皇迄。
  [33]豊御食炊屋比売命(推古天皇)迄。(34代も名前は系譜に登場する。)
 ・・・語り部の時代が終わったこともあろうし、仏教普及が本格化し、習合が始まってしまったので、「古事記」はここまでということ。
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  冒頭に、宇宙創成が陰陽論で語られる。
   古天地未剖 陰陽不分 渾沌如鷄子・・・
  天地創造の由縁は不明。
   天地初發之時 於高天原 成~ 名・・・
 ・・・史書は中華帝国の観念と本朝は同じとみなしたようなもの。教理的には不十分ではあるものの。「古事記」序文がいみじくも指摘している通りだ。
しかし「古事記」本文はそれとは全く異なると言ってよい。小生の感性から眺めれば、天竺の、創成や再生の神の登場に近いように映る。冒頭はまさに神名の羅列でしかなく、具体性を欠いており、形而上表現でしかないからだ。しかるに、突然、後世に同じ神が登場してくる。常識的には違和感を覚えるが、天竺ならさしずめアヴァターラとして時空を超えて登場するようなもの。
実は、この神名羅列自体が、本朝で考えた始原の状況そのものかも。登場する神々もその環境も曖昧模糊としてはいるものの、呪術が基盤的に存在しているため、強固な信仰が確立していた可能性があろう。
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  天地開闢後、葦の芽のように、国常立"尊"が成り、天ッ国ができる。
  葦牙の如く萌え騰がる物に因って成った宇摩志阿斯訶備比古遲~を含む、別天神5柱が高天原に成り、天之常立ノ~で確立する流れ。その次が、國之常立ノ~。
 ・・・高天原とその原初の神々という伝承を、できる限り無視するか、この箇所こそが肝心要と見るかの違いが歴然としている。
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  神世七代は、国常立尊から始まり、伊奘諾尊で完了する。
男神の直系系譜記載的印象を与える書き方。
  「國」創生の霊的動きとしての國之常立ノ~から始まるのが~代七代。独神が原初で、対偶神になっていき、伊邪那岐命と伊邪那美命の登場となる。
 ・・・"尊"とは尊敬称で、特別な場合だけ命というのが史書の方針。原初の神からの男系系譜を記載すれば事足りるとの姿勢からだろう。「古事記」の場合、"命(みこと)"は純然たる和語として使われていそうだから、天命で活動する神としての称号か。高天原の神々に代表として選ばれた対偶神は当然ながら"命"である。
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  国生みの最初の長男は秋津島。淡路は胞で別扱いだが大島や吉備児島が8島に入っている。対馬・壱岐はオマケ扱い。越は本州には入れず独立島。
  秋津島は大八洲の国の最後で、最初は淡路。
 ・・・公的史書なので、大和朝廷の統治上の地理的概念を記載しているように見える。順番は、本州・四国・九州・日本海側(隠岐・佐渡・越)・瀬戸海(大島・吉備児島)+大陸との海峡域(対馬・壱岐)となる。当時の状況から、淡路島の役割を軽視し、日本海側を重視せざるを得なかったのだろう。対馬・壱岐を辺境的位置付けにしているようにも思える。
一方、「古事記」は、歴史観を示すための書き方。それぞれの地に、物語があるものの残念ながら記載できないとの表明と見ることさえできる。
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  海・川・山・木・草/野の神を生む。
  数々の神を生む。記載は名前の羅列。
 ・・・史書としては、皇統譜に係わりそうもない神々は捨象することになる。統治には、神の統合やヒエラルキー化が必要であり、政治上必要で無い神にはご退陣願うのが当たり前である。
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  伊弉諾尊と伊奘冉尊は共に譲って、日の神 大日孁貴(於保比屡灯\武智/天照大神)、月の神、蛭児、素戔嗚尊を生む。
二神は大日孁尊がとても優れていると大いに喜び、天に送り天上を任せた。月の神は光が美しいから日に配して統治を命じたが、素戔鳴尊は勇敢だが泣いてばかりなので根の国に放逐。
  伊邪那美命は死後黄泉の国へ。そこは、蛆がまといつく穢れた世界。穢れを洗い流し(禊)、最終的に三貴神が両目と鼻から生まれる。
伊邪那岐命は、天照大神は高天の原、月読命は夜食国、速須佐男命には海の統治を命じた。
 ・・・孁[霝+女]は、読みは"屡"としているが、靈の巫を女に代替した国字のようだ。極めて独自色が濃いが、中華帝国が見る倭国観の鬼道女王の本来的意味を示す必要性からこうなったのだろう。余りに、意識し過ぎとも考えたか、この部分には、様々な引用記述がある。
太安万侶は、そのような姿勢に対する回答を記載したとも言えないでもない。中国の概念の"黄泉"を持ち出したのである。さらに、穢れから生まれるというストーリーも、ママ記述。この手の話は、貴卑感覚が研ぎ澄まされた層には受け入れ難かった筈であるにもかかわらず。
ここは、古代の再生死生観を示す大事な箇所。太安万侶は、本朝には、道教・仏教の地獄観は無かったことを示すために、死者は地下の黄泉の地へ行くという儒教帝国の基本概念を持ってきたのではあるまいか。情景から見て、確かに昏い環境ではあるものの、黄泉が湧いている地下へ潜ったというよりは、丘墓の横穴にしか映らないからだ。
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  大国主命譚は限定的。
  大国主命については、系譜も含め詳述。
 ・・・大衆化している"因幡の白兎"譚の有無が目立つので、誰もが、両者の採択方針の違いに気付かされることになる。
公的史書では、国譲り事績にハイライトが当たれば必要十分ということだろう。それに無関係な話は一切収録する意義なしとの判断だ。
一方、太安万侶にとっては、国譲り以前の叙事詩を記録することこそ最重要課題。歴史観に則って淡々と選んだ筈。
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  少彦名命は登場しない。
   但し異伝[八段第六書]では、高皇産霊尊の御子。
   吾所産兒 凡有一千五百座 其中一兒最惡 不順ヘ養 自指間漏墮者

  大國主~のパートナーとなった海上渡来神の少名毘古那~は~產巢日~の御子。
神産巣日神は、冒頭の造化の三神として高御産巣日神と対の如くに名前だけで登場し隠れてしまうが、須佐之男命が殺した大気都比売神の死体から生じた五穀/蚕を回収したり、八十神に殺された大国主神を、母の願いを聞き入れて、救命する。
 ・・・神皇産霊尊(神産日神)は宮中神御巫祭神でもあるのに、史書は忌避の姿勢で一貫しているように見える。一応、引用註記には登場するものの。[一段第四書, 九段第七書]
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  天照大~の子 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊が高皇産靈尊の女を娶り天津彦彦火瓊瓊杵尊を生む。高皇産靈尊は養育後、葦原中國の主にしようということに。
  葦原中国で大国主の国譲りが完了したので、天照大御~・高木~之命の天降りの詔が正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に。
しかし、その状況でもないので降臨できず、ペンディングになっていた。結局、高木~の娘と結婚して生まれた子 日子番能邇邇芸命に降臨させるべしと。
 ・・・降臨に当たっては、高木~の系譜が必要ということのようだ。史書は単純化。
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  天孫降臨には中臣連祖と忌部首祖が係わる。天石窟の神々の再掲。[天児屋命+太玉命+天鈿女命+手力雄神+思兼神]
 細かい。開天石屋戸で登場する神々の再登場に過ぎないが、鏡作りの鍛人 天津麻羅と石凝姥命は除かれている。[天兒屋命(中臣連祖)+布刀玉命(忌部首祖)+天宇受賣命(猨女君祖)+伊斯許理度賣命(作鏡連祖)+玉祖命(玉祖連祖) 八尺勾璁+鏡(御魂@伊須受能宮)+草那藝劒 常世思金~(@伊須受能宮)+手力男神(@佐那那県)+天石戸別神(@御門)+登由宇氣~(@外宮)]
 ・・・この時点で、伴であることこそが、朝廷における地位確立の鍵であろう。史書はそこだけ記載すれば結構ということのようだ。
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  橿原宮迄の敵対勢力との闘いは詳しい。最強らしき長髄彦との戦いでは、金色霊鵄が現れて神武天皇の弓の弭にとまり、その輝きが敵軍卒の目を眩ませて勝利する。
  登美毘古を撃退させた場面は「久米歌」のみで、戦闘シーンは記載されていない。
 ・・・太安万侶から見れば、山から盆地南部まで順に各部族を王権に服属させる過程でしかなく、「日本書紀」がいみじくも指摘するように、"古の遺式"たる勝利の宴での歌舞こそが伝承の肝ということになる。それ以外の情報が無かったとは思えないが、それを記述すれば焦点をぼかしてしまうことになりかねない。こうした絞り込み手法は文芸的には常套手段であり、文筆的にも優れた才覚を持っていたことがわかる。
換言すれば、王権樹立を寿ぐ歌舞こそ、王権の永続性を担保するための最重要賀宴との指摘に他ならない。たとえレガリアを奪っても王権奪取が不可能なのは、こうした伝統祭祀を護っているからに他なるまい。
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  "小碓尊(日本童男/日本武尊)は幼い時から雄々しい性格で、壮年になり、容貌は溢れるばかりの逞しき姿に。身長一丈、鼎を持ち上げる力あり。"と素晴らしさを強調。
父の天皇の遠征の後に賊退治に西征。東征も行幸後。その死を天皇は嘆き悲しみ、忠誠を尽くしたということで、褒め称えている。
  兄を有無を言わさず即座に惨殺するなど、極めて残虐。遠ざけるため、父である天皇は、征伐を次々と命ずる。
熊襲、出雲健、東方十二道を英雄的に平定するものの、霊剣を身辺から離したので悲劇的死を迎える。尚、抵抗勢力は国造も入る。父の事績はほとんど記載されていない。
 ・・・父天皇から"愛された英雄"と、"勇者だが、疎まれた皇子"という対比が余りにも鮮明。国定国語教科書に所収されたこともあって、良く知られているそうだ。太安万侶は、"天皇を支える皇太子"と言う理想論から外れている話を敢えて収載している。叙事詩として素晴らしい出来との判断もあったからだろうが、文化支配の観点で是非にも取り上げておきたかったことも大きそう。
史書としては、熊襲(肥後球磨+大隅曾於)と東国/東夷の"反乱"を中央勢力が平定したという記載以上ではない筈。しかし、そのイメージには注意する必要があろう。危険な野獣に近い蛮族が住む地域を天皇の完全な支配下に置いたとの誇りが描かれているとも言えるからだ。
太安万侶はここらの感情についてよくわかっているからこそ、出雲健を加え、東国を十二道(語義:夷の居る県)と記載したと思われる。要するに、蛮族が野生的な訳ではないと語ったのである。
当たり前のことだが、蝦夷は独自文化の国家だからだ。(蝦夷國,海島中小國也。其使鬚長四尺,尤善弓矢。插箭於首,令人戴瓠而立,四十步射之,無不中者。大唐顯慶(659年)四年十月,隨倭國使人入朝。[杜佑:「通典(法令制度沿革詳述書)」801年 卷百八十五邊防典邊防一東夷上蝦夷])
だからこそ、制圧側の方が余程野卑で暴虐性があると誰でもが感じる書き方をしたと見てよかろう。兄の殺害方法など、身の毛もよだつ方法だし、月経中でも性愛を厭わずという、一般社会常識を気にせず、動物的官能で生きている太子、とあからさま。言うまでもないが、そのような皇子は、貴族文化から排除するしかないが、それができないのは、次代天皇として、方々から絶大な支持を集めていたからだ。
要するに、中央貴族層文化とは、感情抑圧が根幹にあり、それを取り払うような清涼感を与える人物だったと言えよう。
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  [15]代応神天皇の御陵の記載が無く、単に、"天皇崩于明宮"のみ。
  品陀天皇/品陀和気命/大鞆和気命御陵在川内惠賀之裳伏岡也
 ・・・400mを越す巨大な誉田御廟山古墳と比定されている。後円の南に誉田八幡宮がある。地名化しており、比定は間違いないと思われる。
海外交流が特筆モノの時代であり、御陵の記載漏れなどおよそ有り得ぬ。と言うことは、応神天皇を、次代[16]大雀命/仁徳天皇が祀っていないから、正式とされていないのかも。と言うことは、生前に建造し、葬儀次第も予め決めておいたが、そこで継承者との齟齬が発生と見るしかないか。あるいは、疲弊をもたらした巨大古墳造営を、仁徳天皇が徹底的に批判し、以後無視すべしと命じた可能性もあろう。(開拓・造営の同時連携プロジェクトで大成功を収めたと見れば。)
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  [継体]廿五年、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮。時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云、「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記爲文。其文云、「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。」又聞「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。由此而言、辛亥(531年)之歲、當廿五年矣。」後勘校者、知之也。・・・【巻17⇒巻18】・・・
廣國押武金日天皇 安閑天皇 勾大兄 [27]廣國押武金日天皇。[26]男大迹天皇/継体天皇長子也。母曰目子媛。・・・
春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇立大兄爲天皇。

卽日男大迹天皇崩。
  <[26]哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)>天皇御年肆拾參歲 丁未年(527年)四月九日崩也・・・
御子 廣國押建金日王(命) 坐勾之金箸宮治天下也 此[27]
天皇無御子也
乙卯年(535年:安閑天皇2年)三月十三日崩
御陵在河内之古市高屋村也

 ・・・両書での年月記載はもともと異なるし、[26⇒27]の皇位継承について太安万侶は特段関心を示しておらず、淡泊な調子だから、無視しようかとも思ったが、「紀」はいかにも思わせぶりな書き方なので触れておくことにした。
継承儀式の即日崩御とされているし、病没扱いだから余計な情報は不要な筈なのに、「百済本記」に天皇・太子崩薨と記載してあると、わざわざ付け加えている。おそらく、プロ百済の時代ではなくなったのだろう。

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