→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.3] ■■■ [33] 干支で絶対年代はそれなりに読める 歴史を知りたいということで、両書の情報をもとにして、素人、玄人、等、様々な人達が絶対年代を推定しているが、小生はその手の議論にほとんど関心がない。 本来的には、叙事詩のお話の絶対年代は、史書から推定すべきで、両書を一緒にした検討などあり得ないからだ。偶々、微細な点で、史書が整合性をとるために改竄した可能性が、他書の記載から判明することはあり得るかも知れないが、それが可能だからといって、史書根幹の年代確定に本朝の他書をベースとする姿勢はとうてい理解できない。 年代記述が全く異なる史書が2冊併存していることなど有り得ないからだ。 つまり、こうした手法を採用してかまわない場合とは、「古事記」が史書の編集前草稿とみなせる場合だけ。 と言っても、史書から絶対年代を推定することが困難な箇所があるのははっきりしている。せっかく情報があるのだから、利用してもよいだろうと考える気分もわからぬではないが、それはご都合主義以上ではなかろう。 それに、小生は、「古事記」の記載だけでも十分読み取れる点が多く、そこまでで充分と考える。崩御年が太歳(60干支紀年法)で示されている天皇がかなりの数にのぼるからだ。 しかし、それでも、年代推定がとてつもなく難しく思えるのは、過半の天皇に崩御年齢が記載されており、不可能としか言いようがない高齢の場合があるからだろう。どうしてそんな無茶な年齢が伝承されているのか不明だし、誰も信用しそうにない数字を削除せずにママ記載する理由も分からないので、暗中模索するしかないと考える人もいるだろうし、面白パズルの謎解き挑戦と張り切る人が出てくるのは自然な流れではある。 だが、冷静に考えてみれば、神話とはもともとそういうもの。祖先の時代では、登場者の寿命が数百歳であってもなんらおかしくない。中華帝国でも、異界を訪問すると、時間のスピードが違ってくるとされており、浦島太郎的な数字が記載される方が普通。 だが、「古事記」記載の世界はそこまでは行ってはいないようだ。おそらく、それぞれになんらかの意味がある数字ということのようだ。 そんな編纂方針を感じさせるのは、太安万侶が上・中・下と巻を分けているからだ。年代の読み方は、巻毎に自ずから違うと注意を喚起している訳だ。 下巻については、天皇の統治期間で現実離れしているものは無く、ほとんど違和感を感じさせないで、西暦の絶対年代を当て嵌めることができる。しかし、その数字が妥当かの確認には、基準年との比較が必要となるが、それは簡単ではない。 推古天皇崩御は628年との前提は措定できるものの、そこから遡及することになるが、ほとんど情報が無いからである。 朝鮮半島に古代文書が存在している訳がなく、創作以外ありえないから、中国の史書との整合性をみるしかない。そうなると沈約:「宋書」488年に登場する倭王となる。この5王が、15〜21代の天皇とすれば、絶対年数的にはそう違ってはいないことがわかる。(例えば、421年倭賛萬里修貢、427年倭國王六國諸軍事安東大将要求、443年倭國王済遣二使奉獻、462年倭王世子興奕世載忠) これなら十分では。 ---下巻--- [33]豊御食炊屋比売命/推古天皇 37年間統治 628年[壬子]崩御 [32]長谷部若雀命/崇峻天皇 4年間統治 592年[壬子]崩御 [31]橘豊日命/用明天皇 3年間統治 587年[丁未]崩御 [30]沼名倉太玉敷命/敏達天皇 14年間統治 584年[甲辰]崩御 [29]天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇 無記載 [28]建小広国押楯命/宣化天皇 無記載 [27]広国押建金目 命/安閑天皇 __535年[乙卯]崩御 [26]哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)/継体天皇 527年[丁未]崩御@43歳 [25]小長谷若雀命/武烈天皇 8年間統治 [24]意祁命(袁祁命の兄)/仁賢天皇 無記載 [23]袁祁王之石巣別命/顕宗天皇 8年間統治 __崩御@38歳 [22]白髪大倭根子命/清寧天皇 無記載 [21]大長谷若健命/雄略天皇 489年[己巳]崩御@124歳 [20]穴穂御子/安康天皇 __崩御@56歳 [19]男淺津間若子宿禰命/允恭天皇 454年[甲午]崩御@78歳 [18]水歯別命/反正天皇 437年[丁丑]崩御@60歳 [17]伊邪本和氣命/履中天皇 432年[壬申]崩御@64歳 [16]大雀命/仁徳天皇 427年[丁卯]崩御@83歳 ---中巻--- [15]品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇 394年[甲午]崩御@135歳 それにしても、どうして、下巻に124歳という記載を残したのか理解に苦しむ。([19]父78才⇒[20]弟56才⇒[21]兄124才) 62才を倍にしたか、干支一回りの60年を加えた数字としか、言いようがないから、後者と考えるしかなかろう。帝紀では、中巻⇒下巻の絶対年数を古くさせる必要から、一番問題がおきそうにない天皇の崩御年に加えることにしたのだろうか。 太安万侶はそれを理解していたことになろう。 どうあれ、太安万侶の書き方からすれば、中巻⇒下巻の切れ目の絶対年数は394年ということ。 ここより古い時代は上記のようにはいかなくなる訳だ。ただ、[10]代迄は、干支で繋げてもよさそうに映るが、それ以前は欠史8代と呼ぶ人が多いことでもわかるが、絶対年数の根拠になりそうな情報が全く無い。 崩御年齢は記載されているが、驚異的な年齢だらけで驚かされるが、中国での記載を鑑みれば(其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀[「三國志」魏書 東夷伝 倭人…魏略逸文:裴松之注])、天文年ではなく、農事年であると考えられるから、2期作ということで、半分で考えればよいのであろう。それでも長寿すぎる印象は否めないが。ともあれ、太安万侶は暦年記載の転換点を中巻末としただけのこと。マ、[16]大雀命/仁徳天皇がグローバル・スタンダードに合わせたのだろう。 尚、[10]代天皇崩御年が318年で妥当かは微妙なところ。較正対象が無いとも言いきれないからだ。この代には、箸墓譚が収録されており、これを魏書の卑弥呼とすれば遣使が258年辺りとなるからだ。250年頃没し、墳墓築造の一大プロジェクトが始まったとすれば、干支は60年前の方がしっくりくるのは確かだ。ただそうなると、3代で100年弱の在位となり、実態の倍以上の長さとなるから、無理筋だろう。ここらを考えると、太安万侶の悪戯としてしまえば簡単だが、結論はでそうにない。 しかし、[10]代天皇崩御年がその辺りらしいとは言えそうだ。さらなる遡及は、直系とされているから20〜25年/代で想定するしかなかろう。初代崩御は少なくとも107年(倭国王帥升)よりは前であれば、マ、いいところか。 ---中巻--- [15]品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇 394年[甲午]崩御@135歳 [14]帯中津日子天皇/仲哀天皇 362年[壬戌]崩御@52歳 [13]若帶日子天皇/成務天皇 355年[乙卯]崩御@95歳 [12]大帶日子淤斯呂/和気天皇 崩御@137歳 [11]伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇 崩御@153歳 [10]御真木入日子印恵命/崇神天皇 318年[戊寅]崩御@168歳 [9]若倭根子日子大毘毘命/開化天皇 崩御@63歳 [8]大倭根子日子国玖琉命/孝元天皇 崩御@57歳 [7]大倭根子日子賦斗邇命/孝霊天皇 崩御@106歳 [6]大倭帯日子国押人命/孝安天皇 崩御@123歳 [5]御真津日子訶恵志泥命/孝昭天皇 崩御@93歳 [4]大倭日子鉏友命/懿徳天皇 崩御@45歳 [3]師木津日子玉手見命/安寧天皇 崩御@49歳 [2]神沼河耳命/綏靖天皇 崩御@45歳 [初]神倭伊波礼毘古命/神武天皇 崩御@137歳 それにしても、何故に、崩御の年齢に拘るのかが分からぬ。 現代感覚だと、人物確定は誕生年記載であるが、古代であっても、少なくとも即位の年齢を表記して当然ではなかろうか。そうなると、それは書けなかったことになろう。 おそらく、公的史書とはひどく異なる数値が多すぎたか、崩御年と矛盾し過ぎなので、収載を見送ったのだろう。そもそも、口誦であると、中巻の数値は、すでに廃れた表現だらけだったかも知れず、どう翻訳するかは悩ましい問題でもあったろうし。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |