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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.23] ■■■
[53] 物部氏石上神宮に謎など無かろう
「日本書紀」の記述内容を気にしなければ、物部氏の出自に特別不思議感を覚えることは無いと思うが、どうなのだろう。小生は、他の氏族と同程度に不透明という以上では無いと見るが。

そんな話をしたくなったのは、"一般的には"、物部氏とは一体ナンナンダとの議論が巻き起こったりするらしいから。

読んでみれば、その気分わからないこともない。
どう見ても、臣下としての記述とは思えず、初代天皇に王権をバトンタッチしたかのような書きっぷりだから。

しかし、史書とは、もともと、そういうものではなかろうか。
おそらく、編纂グループに物部氏代表が入っていて、一歩も引き下がらなかったから。今となっては、その実態のほどは確かめようがないが。(信長敵対の道を選んでしまい、壊滅的被害を被ったから、現存資料は、時代認定が難しい埋葬物出土品しかなかろう。)
(「古事記」はその点では淡々としたもの。取り上げる、初代での話を別とすれば、20代 穴穂御子安康天皇は"石上"穴穂宮24代 意祁命(袁祁命の兄)仁賢天皇は"石上"廣高宮。(兄弟が舞う際…""物部"之我夫子之 取佩於大刀之手上 丹畫著其試メ 載赤幡")と、26代哀本杼命(品太王五世孫@近淡海國)継体天皇代で竺紫君石井の乱で物部荒甲之大連と大伴之金村連が派遣された程度しか登場の余地なし。)

小生は読んだことがないが、有名な著作の影響力もあるそうだ。その題名が、人々の関心を引き寄せたらしい。・・・
関裕二(歴史作家):「物部氏の正体 消された王権・物部氏の謎―オニの系譜から解く古代史}PHP文庫 2002
ibid.:「物部氏の正体―大豪族消滅に秘められた古代史最大のトリック」東京書籍 2006


早速だが、「古事記」の当該箇所を見ておこう。

単純にして明確な書きっぷり。・・・
初代天皇が、一帯を制圧して畝傍白檮原宮に座す直前、唐突ではあるが、邇藝速日命が登場するだけ。
~の御子が天降されたので、参上して来たに過ぎない。そして、天の瑞宝を献上し、伺候を申し出たのである。
○邇藝速日命
└┬△登美夜毘賣(登美毘古の妹)
○宇摩志麻遲命
   …祖:物部連(山辺+河内渋川)・穗積臣(山辺穂積+十市保津)・婇臣(采女)
常識的に考えれば、強者と戦って滅亡する道を避けただけとしか思えない。面子に拘らない、賢い選択と言えよう。下手すれば、土蜘蛛一派とされ、一族抹消の憂き目の可能性もあるのだから。
しかし、注目を浴びるのは、土着かと思いきや、"天"系が故。初代天皇が倭に入る以前に、すでに、天孫族が降臨してこの地に根付いていたことになるからだ。
そんなストーリーにされると面白くない人にとっては、インパクトが大きかろうが、そうでなければ、どうという話でもなかろう。こぼれ落ちた神が出雲に渡来する位だから、先住天孫勢力が居てもおかしくないからだ。

と言っても、注目すべき点はある。献上した祭祀用宝器で同族を証明したのだろうから、珠(翡翠)・剣・鏡が含まれていたことになるからだ。太陽崇拝の祭祀を行うことが、"天孫"を意味していることになる。
そうなると、物部氏の祭祀拠点たる石上神宮は、天照大御神の神器たる剣がご神体とされているが、それ以前は、独自の太神が祀られていた可能性が高い。しかし、天皇臣下となったので、太陽神は同一ということにして、刀剣神の祭祀者として仕えることになったと思われる。
この結果、石上神宮は天皇家の呪術的刀剣のメッカとなり、以後、武器庫の道を突き進んだと言うことになろう。

・・・このような流れが、謎に当たるとは思えない。

ただ、"消された王権"との指摘はその通り。

突然、記載されてもいない太陽信仰が登場するから、強引な論調に映るかも知れぬが、「古事記」を一通り読んでいれば、そのような想定にならざるを得ないのである。
歴代天皇の宮地と御陵地を眺め、奈良盆地の全体像を俯瞰すれば、そう考えるしかなかろう。・・・

┼┼┼┼┼┼↓佐紀└─┘(木津川)
┌淀川┘┼┼┼▲▲▲▲▲▲
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼春日山
┼┼生駒山┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
高安山┼┼┼┼┼┼┼(←和爾/櫟井/柿本)
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
大和川─┼┼┼┼┼┼┼←石上
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼←柳本
二上山┼┼┼┼┼┼┼┼巻向山
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼三輪山
┼┼┼┼┼┼┼┼┼▲▲▲←桜井
葛城山┼┼┼┼┼┼┼ └─初瀬川─
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼▲▲▲
┼┼┼┼▲▲▲
金剛山巨勢山
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼多武峰
┼┼┼▲▲▲┼┼┼↑飛鳥
吉野川───────────

簡単にご説明しておこう。
本朝は北斗信仰ではなく、夜の月神尊崇でもまく、あくまでも"日の出"信仰の地。
東の山から太陽が昇る姿に神々しさを感じると共に、命の再生を願ったと見て間違いなかろう。

このことは、必ず、"日の出"の山が設定されることになる。
普通に考えれば、奈良盆地では、その山とは三輪山になろう。実際、この山はご神体とされている。そして、その神名は大"物"主。"物"という名前の人格神のようにも見える。このことは、本来的には、物部氏の太陽神の時代があったことを示唆している可能性もあろう。(そこ存在する山崇拝は、山周囲の土着の人々の自然信仰であるが、これと、日の出の御山体信仰が習合したとの見方。)
と言っても、物部氏の部族神社は、三輪山とは離れて地になる石上神宮。この場合、日の出の山は龍王山になる。しかし、考えてみれば、太陽信仰としての日の出の山なのだから、三輪山+龍王山+αの3山信仰だったと考える方が自然である。奈良盆地東側は南北一列に山並みができているからだ。
倭国は、天文歴を使用せず、農歴国家とされており、太陽位置確認は精緻を極めていた筈で、夏至・冬至・秋分/春分の位置がわかる日の出の山こそ聖地とされていておかしくなかろう。
(勝手な想像ではない。司馬遷:「史記」封禅書第六に倣うなら、冬至には三輪山山頂で天を祀るしかなかろう。(封)当然、夏至には龍王山山麓で地祇を祀る(禅)ことになる。王朝をはそういう存在。)
 石上神宮@龍王山の西麓(布留山北西麓高台)
 大神神社@三輪山(ご神体)の麓
   一体山595m
   城山_528m
   高峰山632m
   龍王山585m
   巻向山567m
   三輪山467m
   --------
   音羽山851m
何故に、このような、いい加減に映るような推理をするかと言えば、部族の居住地域が山辺とされているからでもある。石上神宮に近い地だから一見妥当そうに見えるが、龍王山から昇る太陽信仰部族が好んで日々太陽を拝めないような場所に住むとは思えないからだ。おそらく、なんらかの事情で移らざるをえなくなったのだろう。
どこから移って来たかはほとんど自明。特別な日に、三輪山や龍王山の日の出が望める地が本貫地ということになろう。
その地に当たるのかは、はなはだ心もとないが、弥生時代の300,000平米の環濠集落【唐古・鍵遺跡】@奈良盆地中央部沖積地も候補にあげてよいだろう。(もちろん、全国から土器が到来しているし、翡翠も出土。)
奇妙な装飾が施されたの多層式の楼閣が存在したと見られているが、これが物部氏の呪術と関係していそうだし。そこらが、石上と記載し、"石"をイソと読ませる理由を物語っていそう。

太安万侶はかなりのことまで読んでいそう。

神剣は"草薙"とされるが、それは駿河の焼津の地名譚とは関係なしと、わざわざ示唆していることもある。物部伝承は古層であり、"草薙"とは、水田農耕以前の焼畑時代の神器を意味していると指摘したかったのかも。それは無灌漑の天水農業であり、落雷を呼ぶ力がある神剣こそ、旱魃から救ってくれる偉大な雷雨神とされてもおかしくない訳で。

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