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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.27] ■■■
[57]目次的下巻題名は見事
序文は、何回か部分的に取り上げて来たが、実によくできている。

常識的には、本文あっての"序"の筈だが、本文と違って漢文だし、本文を読んだ後の別途読み物と見ることもできよう。
そういう意味で、素晴らしいの一語に尽きる。

例として、解題の最後、3巻構成の説明に於ける、下巻の目次的記述を取り上げてみよう。
 大抵所記者。
 ・・・上卷。
 ・・・中卷。
 大雀皇帝以下 小治田大宮以前
  爲下卷。


たったこれだけだが、実にinformativeである。

【大雀皇帝】と【小治田大宮】が対比的に書かれているからだ。これには舌を巻く。

前者は、[16]代大雀命。
 宮は難波之高津宮で、御陵は毛受耳原。
 427年[丁卯]に83歳で崩御。

余程無神経な人でない限り、中華帝国的表現であることに気付く筈。
現代人なら尚更。天皇でなく皇帝と記載されているからだ。しかも、大雀命なので、漢字2文字になっているものの、儒教的雰囲気から縁遠い。馴染みある、仁徳天皇イメージを全く感じさせない仕掛け。

仁徳といった、漢風諡(シ/おくり名)号は淡海三船[722-785年]撰とされている。[注釈書「釈日本紀」の私記]
史書はこの名称で歴年表示するしかないから、必須だが、「古事記」は知らん顔。

もちろん、史書も、"和風諡号"を併記しているが、この呼称は41〜54代天皇の葬送儀礼で行われたもので、神武天皇〜天武天皇には該当しないそうだ。従って、史書に於けるこの代の和風は、生前の別名との説もある。諡ではなく、実名の諱(いみ名)ということになろう。
もちろん、明らかに実名とは考えられない場合もあるから、不詳もありということになるが。

一方、後者は、[33]代豊御食炊屋比売命。
 宮は小治田宮。
 37年間統治し、628年[壬子]に崩御。
 御陵は大野岡上。
 河内 科長大稜に遷す。

史書に記載される推古天皇といった、いかにも儒教経典からとったような2文字漢号とはえらい違いだ。「古事記」はそれを和風な2文字にするようなことはしない。
ここでは、長い和号を表記せずに、宮地名。

【小治田大宮】といった地名で天皇名を代替する表記方法は、「風土記」でも使用されており、極く一般的なもの。
それは、礼儀あるいは、謙譲表現と言えなくもないが、もともと生前に本名を知られたりすれば呪術で魂魄に悪影響を被りかねないという観念から、そのような呼び方は当たり前のルールだったのだろう。
実際、女性に本名を明かすことは正式なプロポーズを意味するのだから。

これは決して天皇に限っている訳ではなさそう。"〇○地区の△△に住む太郎"という呼び方が普通だったらしいから。貴族だと、邸宅名称が使われたりする訳だ。
箱庭的風土だからこそ可能な呼び方でもある。太安万侶は、その辺りの中華帝国との文化的違いをを知り抜いていたように思われる。

遊牧主体の乾燥地帯では、今でも、個人名は、何代も先からズラズラと繋がる、とんでもない長さの名称。実用的には、適当に省略するしかないから、同名だらけに見えるが、使われる場によって省略方法が変わるから間違えることはない。
中華帝国になると、血族第一主義だが、確実に個人を同定できる名称にするため、そのような表記は絶対にしない。第一義的に重要なのは宗族名であり、そのなかでの個人を特定できるように命名されることになる。
他宗族の土地や財産を知恵と武力で奪うことが嬉しい人々が暮らしている社会である以上、移動や分散必至なので、これ以外のID設定は難しいということだろう。

そんな違いを肌で感じ取っていれば、本朝では、宮やご陵の地が何処かという情報は貴重であることがわかろうというもの。様々な状況が地名から推測可能な社会なのだ。逆に言えば、これが読めないと、社会が見えてこないということ。

・・・たった16文字しかないにもかかわらず、そこからの問いかけは深くて広いものがあろう。
それを受け取って読み進まないと「古事記」の価値は極めて薄いものになってしまう。インテリ層の、限定読者相手の書であることは明らか。

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