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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.5] ■■■
[63] 王朝祭祀歌謡の的確な記載
"仮名序"と「古事記」の対比を始めたところで、話が飛んでしまうように映るだろうが、両者の違いではここが肝なので致し方ない。

"仮名序"が、民の竈の仁徳天皇即位を寿ぐ歌と安積山の歌を、歌の父母としているからである。

言うまでもないが、「国見」を示唆しているからだ。

この用語については、若干の解説が必要と思われる。・・・"民俗的な農耕儀式が発祥と思われる。"的な、100%情緒の世界にどっぷりと浸かっているので、一旦、頭を入れ替えないといけないので。(神への平伏儀礼様式が行われていた同じ山で、突然、山頂から王が周囲を睥睨する祭祀が始まった点に注意を払う必要があろう。)

中華帝国では、古代王権は祭祀と戦争で成り立っていたのは常識中の常識。とても王権と呼べそうにない、小さな島内で交流もままならぬ狭隘な地に住む部族であっても、通用すると見て間違いないセントラルドグマである。
基底では、皆同じだが、これをどう止揚していくかは、経済基盤や風土、人々の姿勢で大きく異なる。
そんなことは当たり前と思っていても、実際に、その流れがどのようなものだったかは、よくわからない。

この原因は、古代情報が無い点にありとされがちだが、小生は、違うと見る。
ご都合主義的に解釈したい人だらけの社会に住んでいるため、素直に考えることができなくなっていると考える。

"仮名序" v.s. 「古事記」は、是非にも、そういう観点で眺めて欲しい。

と言うことで余計なことを書いてしまったが、「国見」の素人解説。

ついでながら、【王】という文字だが、3本棒は天人地で、|はそれを纏め治める者の意味と云う、いかにも後世の作り話的な由緒解説をよく見かけた。まだ過去形になってはいないが、古代王朝の実態に即して甲骨文字を読むべしとの白川静の主張が広がってから、見方が大きく転換した。
武器としての実用性を欠く青銅製鉞が多数出土しており、誰が考えても、それは王権象徴の儀器であり、それを示す文字が【𠙻】と見るしかなかろうとなる。その文字が、【王】の出自なのも明らか。

その王の任務は祭祀と戦争。鉞こそ、戦争に勝利し人身御供祭祀を司ることができる王権を示す宝器と言ってよいだろう。

その祭祀と戦争の両者に係わるのが、同じく王権を示す「国見」の儀式である。
王の一族の内輪の宗族祭祀とは別で、支配権確立"確認"のためのもの。
中華帝国用語では、遥望祭祀(山川地祇之礼)となる。もちろん、史書に記載されている。
二十八年,始皇東行郡縣,上鄒嶧山。立石,與魯諸儒生議,刻石頌秦コ,議封禪望祭山川之事。乃遂上泰山,立石,封,祠祀。[@司馬遷:「史記」卷六秦始皇本紀]
【牧人】・・・望祀,各以其方之色牲毛之。[「周禮」地官司徒第二]

山河の土着の地祇を王が従えるための儀式であることがわかる。
王の行幸はまさにこれがため。その地の神を祭祀を、当該地の首領を従えて執り行うことで、王国の一部であることを確認しているようなもの。
ここらが、えらくわかりにくいのは、連合王国的様相を呈しながら、皇帝独裁国である点。殷代は、敵対部族抹殺、生贄奴隷大量捕獲であるが、同時に祭祀を共同で執り行えば敵対国とは見なされなかったことになる。おそらく、狩猟もそのような儀式の可能性が高く、現代で言えば同盟国の共同軍事演習開催に当たってのお祭りに当たろう。
「国見」では、中華帝国用語の"望"とはではなく、"見"が使われるが、南島系信仰の基底になっている、見ること自体にただならぬ霊力があるとするマナ信仰を習合しているからだろう。

すっかり長くなってしまったが、"仮名序"と対比すべき、「古事記」の国見の歌とはこれである。・・・
故 太后聞是之御歌大忿
遣人於大浦追下而自步追去
於是 天皇戀其K日賣 欺太后曰 "欲見淡道嶋"
而 幸行之時坐淡道嶋 遙
望歌
 押し照るや 難波の崎よ 出で発ちて
 吾が国見れば 淡島 淤能碁呂島
 檳榔の 島も見ゆ 放つ島見ゆ


ただ、これが国見の歌とは思えないシチュエーションになっている。本格的な国見歌は、本来はこちらの場面での"聖帝"の御製として収録すべきだが、太安万侶はそれは避けたようだ。
 是天皇 登高山 見四方之國
 詔之
 於國中烟不發 國皆貧窮
 故 自今至三年 悉除人民之課伇
    是以 大殿破壞悉雖雨漏都勿脩理
    以椷受其漏雨 遷避于不漏處
  後見國中 於國滿烟
  故爲 人民富 今科課伇
  是以 百姓之榮 不苦伇使
 故 稱其御世謂"聖帝世"也

国見歌の基本パターンはそれこそ遍く知られており、記載の要無しということ。
高市岡本宮御宇天皇代[息長足日廣額天皇(舒明)]天皇登"香具山"望國之時御製歌:
 大和には 群山あれど とりよろふ
 天の香具山 登り立ち
 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ
 海原は かまめ立ち立つ
 うまし国そ あきづ島大和の国は
 [「万葉集」巻一#2]
大和香具山での儀式になっているが、この天皇代で地祇祭祀をことさら取り上げる必要もなさそうに思うが、人々の琴線に触れるものだったのだろう。大和盆地内で、出向いて領土望見を執り行う意味はすでになく、道路水路(条理)見分儀式化しておかしくないからだ。

ちなみに、「古事記」に国見歌として収録されているのは、品陀和気命/大鞆和気命/應神天皇御製。宇治市の西でのこと。
一時 天皇越幸近淡海國之時。
御立宇遲野上
望葛野
歌曰:

 千葉の 葛野を見れば 百千足る
  家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ


考えれば当たり前のことで、煙も立たない家庭の状況で、見分して、国の秀と称えて神々を寿ぐことなどできる訳もなく、そのような状況での歌が伝承される道理がなかろう。

「古事記」の面白いのは、そんなことがわかると、[21]代大長谷若健命/雄略天皇の登山をわざわざ収録した目論見が見えてくること。どうでもよい話でもないのである。一言主はその山の天皇であり、そこは国見ができかねる地域だったことを意味するからだ。
初大后坐日下之時
自日下之直越道幸行河内
爾登山上
望國内者
有上堅魚作舍屋之家
天皇令問其家云
其上堅魚作舍者誰家
答白
志幾之大縣主家


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