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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.14] ■■■
[72]稗田阿禮に不可思議な点なし
稗田阿礼は実在が疑われるとか、巫女だったとか、諸説紛々らしい。

阿禮の姓が不記載との指摘があり、それが大問題となるらしい。

全ての者が姓付き氏がある筈で、太安万侶が知らない訳がないにもかかわらず、自らの官・姓は記載しているのが、余りに不自然とされている。それに、素性不明瞭な舎人であり、天皇から、国家正書の帝紀の誦唱命を受けることもおよそ考えにくいとの主張のようだ。

小生からしてみれば、と言うことは、太安万侶が意図的に姓を記載しなかったと見るだけのこと。パージされた氏かも知れぬと考えるだけの話。語り部族は不要になってしまったのだから、衣替えする訳で、記載がためらわれたのかも。

小生には、不可思議説とかでっち上げ説は理解不能だからだ。「古事記」は元明天皇に上奏された書では無いとか、上奏はされども序文内容は虚偽と見なすのは無理筋と見るからだ。そんな嘘っぱちの実名入り上奏文が残っているとは考えにくかろう。

素人からすると、稗田阿礼に関して、不思議な点などほとんど無い。

稗田の出自はほぼ想定できているからだ。
猿女君(祖:天鈿女命)の地と見られているそうで、この推定におかしなところなど何もなかろう。
  賣太神社@添上/大和郡山稗田環濠集落(御祭神:稗田阿礼)創建年不詳
語り部や歌舞を専業とする集団を管理するのが猿女君であるということで、この地域にはこの手の家業が多かったということ。
そこの出身で、"アレ"と呼ばれている天才的才能を持つ舎人がいたと記載しているに過ぎず、わざわざそこに"不可思議"を見つけようとする姿勢が、さっぱりわからぬ。

単に、「日本書紀」に稗田阿礼に関係する記述が全く見当たらないに過ぎまい。

しかし、天武天皇が帝紀と上古諸事を記定せよと、《681年》に勅を出したとされているのだから、小生など、そこから「古事記」記載との矛盾どころか、成程感を覚えてしまう。
  天皇御于大極殿
  以詔
  川嶋皇子 忍壁皇子
  廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王
  大錦下上毛野君 三千小錦中忌部連子首
  小錦下阿曇連 稻敷難波連 大形大山上中臣連
  大嶋大山下平群臣子首
  令
記定 帝紀及上古諸事
  大嶋子首親執筆以録焉

     [「日本書紀」巻廿九 天渟中原瀛真人天皇/天武天皇(下)]

これはあくまでも文字記載の命であり、史書たる「日本書紀」に繋がる項目であるのは間違いなかろうが、「古事記」の内容が「日本書紀」と似ている以上、切っ掛けは同じと考えるのが自然であろう。
繰り返すが、ここでは"記定"。文字化して公式な書として定めよ、という勅ありとの記載。
「古事記」の勅はこれとは違っており、"誦習"。
誰が考えても、上記の命で集められた元ネタや、作られたドラフトをいち早く口誦できるようにせよ、との勅以外に考えられまい。
ピカ一の語り部を選んで、その歌謡を皆に聞かせよというお達しが出たと書いているようなもの。なんら突飛な話ではなく、当たり前の行為を命じただけのように映るが。
従って、そんな話を、正式な史書にわざわざ掲載する必要があるとは思えない。

おそらく、太安万侶はその歌謡を聞き、大いに感動を覚えたのであろう。これこそが、歴史そのものだと。
このような叙事詩歌謡はこの先消えていくことになるが、なんとか後世に残すことができないだろうかと考えてもおかしくなかろう。そして、文書に残せるなら、やるがよいと、天武天皇からお墨付きのお言葉を頂戴したのだと思われる。
その次第を元明天皇に上奏したので、「古事記」献上とあいなったのであろう。

従って、「古事記」には歴史観は詰まってはいるものの、史書ではなく、皇統譜に沿った叙事詩を文書化したものとなる。史書とは全く異なる発想で編纂されたのでる。

史書の場合、できる限り矛盾なきような、辻褄合わせは必須。しかも、騒動のモトにならぬように、官僚の知恵を結集して調整が図られる。
一方、叙事詩は、粗削りで粗野な事績話そのものだからこそ意味がある。互いの矛盾など至るところに露呈しかねない代物だらけ。多くの場合、その矛盾は、間違いとは言い難く、自然に変更が加わって出来上がった"結晶"だ。だからこそ、そこから歴史が見えてくるのである。
そこに、太安万侶が気付いたとも言えよう。歴史は先人から教わるものなのである。
従って、編纂は、太安万侶が解釈した歴史観に基づいて行われたに違いない。それが、叙事詩の息吹を一番良く伝えることになるからだ。
---「古事記」序 稗田阿禮の箇所---
於是 天皇詔之。
 朕聞:
  諸家之所齎 帝紀及本辭
    既違正實
    多加虛僞
 當今之時
    不改其失
    未經幾年
    其旨欲滅
 斯乃
   邦家之經緯
   王化之鴻基焉
 故惟
   
撰錄帝紀
   
討覈舊辭
   削僞定實
   欲流後葉

時有舍人
姓稗田 名阿禮
 年是廿八
 爲人聰明
 度目誦口
 拂耳勒心

即勅語 阿禮
 令
誦習
    帝皇
日繼 及 先代舊辭

然運移世異
未行其事矣


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