→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.18] ■■■ [76]本居宣長の見方を無視したが もちろん浅学の故であるが、個人的な好みの問題もある。高校生時代に小林秀雄の著作を読んで興味を失ったことが未だに尾を引いているのだ。 「古事記」を発掘した人と言っても過言ではないから、無視すべきでないとは頭では考えるものの、どうも手がでない。語句の意味がわからない時に、その部分の記述を参考にすることはあるが、それ以上ではない。 しかし、それでよかったかも知れないと思うようになった。 説明は省くが、「記紀」として読む風土の源流は「古事記伝」辺りにあるのではないかという気がしてきたからだ。内容も知らずに言うのもトンデモない話だが、簡単に言えば、分析思考の上に立った情緒論を後押しする書になっていそうに思われるから。 換言すれば、「記」の記述をを後押しするために「紀」の情報を使うとか、「紀」の情報を補完するために「記」の記載内容を利用するのは当たり前という風潮を作り出してしまった、と見てのこと。 この様な姿勢では、「古事記」を読む価値は薄れてしまうと、さんざっぱら書いてきたつもりで、繰り返しになって恐縮であるが、いくら書いても書き足らないと思っているのでご勘弁の程。 その理由は、公的史書と叙事詩集成書は根本的に異なるということに尽きるが、そこらに余りに無頓着過ぎると思うのである。 しかし、そんな発言を聞き入れる人はほとんどいまい。両方とも日本の古代史の本であり、参考にするのは当たり前と考えているからだ。・・・この見方のどこがおかしいのだ、馬鹿なことを言う輩も居るものと感じるに違いない。 要する謂、小生から見れば、分析思考をもとに情緒論を展開するのが大好きな人だらけの社会と感じる訳で、申訳けないが、どうしても一言書きたくなる。 ここで、"分析思考"とわざわざ書くのは、概念的思考をしない人だらけという意味。 例えば、こういうこと。 「日本書紀」と「古事記」の差を、概念的思考をしている人に問えば、たいていは、前者は、国の歴史で、後者は天皇の歴史、と答えるだろう。 これを聞いた分析的思考の人は、正確には、前者は公的な編年史書であり、後者は天皇家の私的な系譜書と付け加えるかも。 ココには、両者の発想の違いが顕著に表れているのだが、概念思考をしなければ気付かない。それどころか、口に出さないだけで、どこか頭がおかしいのではないかと思ってしまうだろう。 簡単に言えば、「古事記」には、叙事詩を通じて、「天皇とは?」という根本的な問いに答える思想が詰まっているということ。 国史では不要どころか、天皇=国であって、そこを穿り返すような書は即刻焚書にすべきとの大原則が存在している。従って、「古事記」は、本来的には危うい書であり、太安万侶は才覚でそこを上手にクリアしたことになる。 お蔭で、「古事記」から様々なこともわかって来る。 例えば、歌についても、"神語"とわざわざ分類用語が記載されていたりする。叙事詩の分化が始まっていることを示唆するために記載したとしか思えない。この手の歌が現存する祝詞だろうと推定できるし、凝った口誦方法は、いかにも祭祀における芸能的歌謡を彷彿させるものがある。それらに適合しそうにない、歌垣的な部分は、その後、抒情的に洗練され、和歌として独立した流れだろうと自然に想定がつくようになっている。 そして、なによりも重要なことは、この様な古代から連綿と続く文化的潮流を維持し発展させて来た核が天皇という"事実"。 つまり、「古事記」はそのようなことにまで触れた、"知"の書ということ。既知の方法論と知識でトコトン分析する際の"知恵"とは次元が違う。 話が長くなってしまったが、「古事記」の文章をとりあげて終えることとしよう。 どのような書でも冒頭はことのほか大事。しかも、「古事記」の場合は、神が初めて登場するシーンだから、太安万侶は神経をすり減らして推敲したに違いない。 序文では、"造化"3神として紹介される部分だ。 乾坤初分 參~作造化之首 当然ながら、この3柱の神名記載には相当な入れ込みがあったと見てよいだろう・・・ 天之御中主~ 高御產巢日~ ~產巢日~ ここだが、普通、産巣日をムスヒと読むことになっている。 "ムす"という語彙は、「君が代」歌謡の"苔のムゥ〜スゥ〜まぁ〜で"でお馴染みの語彙だし、意味的にも"造化"だから、"生ずる"ということで、なんら違和感も覚えずに納得していたが、少々安直過ぎる気もする。 [「君が代」は仮名である「古今和歌集」巻七賀歌巻頭の読人知らずを出典としている。多くの場合、"う"音脱落の"産[うム]す"とされているが、その根拠は不明。] "産"という漢字の読みは、あくまでも"ウむ"である。音便でも"ウぶ"すな[産砂]。"ムす"と読む根拠は薄弱と言わざるを得ない。 それに、"成る"とは違う用語として使うのだから、自動詞ではなく他動詞なのだろうから、主語は神自身ということなのか、それなら"ムす"対象は何なのかという問題も生まれておかしくない。 ・・・そんなことを考えていると、もしかすると甲論乙駁になりかねない箇所かもと思えてくる。 (実際、男女の「むすび」を象徴する神とする説があるそうだが、対偶神になっているのだから、素人からすればこちらの方が筋がよさげ。) ところがそうならないで来たのは、「古事記伝」のお蔭ではないかと睨んでいる。 「記」は「紀」と比べ物にならない程素晴らしいと、いくら書いても、小生から見れば、冒頭から「記紀」発想での解釈が行われている。そんな姿勢が喜ばれる風土だから、その部分の主張は即時正論とされておかしくなかろう。 「紀」では、初の神は國常立尊だから、参照の意味は無い筈だが、よくできた書で、他の伝承の付記がある。そうした、一書に天御中主尊・高皇產靈尊・神皇產靈尊が登場してくるのだ。 しかも、そこに、皇產靈を"美武須毗"と言うと記載されている。つまり、「古事記伝」は「紀」を根拠としてムスヒという読みを"当然"と判断したことになる。[他の出典もあげてはいるものの。…多加美武須比@「古語拾遺」、高彌牟須比@「新撰姓氏録」] ここで、ご注意頂きたいが、以上のような細かいことを追求したいのではない。こんな風に、色々問題があるから、「記紀」で考えるのはは止めた方がよいと言いたいだけ。 <〇[-ミ]+産[うむ]+巣[す」+日[ヒ]⇒-ミむすヒ>と読むことに違和感がある訳でも無い。その論拠を「紀」に求めることを問題視するため、ゴチャゴチャ書いただけ。 その真意をおわかりだろうか。 なんと言っても、ここでのポイントは"日"だから。 ところが、ムスヒの読みを「紀」に頼るから、ここは產巢日=皇產靈とされるのは必定。と言うか、そう考えたいからこそ、読みの根拠を「紀」に求めていると解釈もできるのだ。 これでは、太安万侶の苦闘は水の泡と帰すのではなかろうか。 ここの問題は軽く触れたことがあるが、はっきり書いておこう。・・・ この2神の名称は"靈"では駄目で、"日"と記載してこそ意味が生まれる。 太陽神は天照大御神なのは自明だと思うが、「古事記」でそのように記載している訳ではない。 それは当たり前の話。 太陽神を欠く神代の時代がある訳もなく、その信仰がメインになることになんの不思議もない。しかし、天照大御神の登場は、他の大勢の神々が登場したずっと後で、それまで太陽神不在としたらそれは異常な社会であり、ありえまい。にもかかわらず、様々な神々が大八洲で生まれたにもかかわらず、太陽神が生まれた気配は皆無。もちろん、この間、地は明るかったのだ。 そうなると、太陽神は国生み前から、高天原に存在していたと考えるしかあるまい。決してそれはおかしなことではない。 ところが、そこにも太陽神の存在をを思わせる記述は何も無い。結局のところ、太陽神たる天照大御神が大八洲から高天原に昇り主神となるのだから、引き継ぎがあったと考えるしかなかろう。 太安万侶はこれに気付き、"造化"の神とは太陽神であると見なしたに違いなかろう。愕然としたかも。 序文での道教的記載を見ると、太安万侶はかなりの知識を持っていそうだから、古代道教時代に"造化"の神とも言える、生命力の表象の神々が存在していたことはご存じだった筈。具体的信仰対象としては、脱皮再生と凄まじい生殖力を持つ蛇、生殖器("陽物")、根・枝分かれした巨樹への傾倒、等々になる。 それらが、産巣日の神に当たると踏んだに違いない。 ところが、そこには太陽神はいない。 ここがポイント。 本来的には太陽神ではないが、太陽神でもある、という矛盾した話になるのだが、大八洲国の一大特徴は、それは矛盾ではなく"事実"なのである。この伝統を遵守し続けたことを示すことこそ、皇統譜を記載することになる訳だ。 大胆に推測すれば、高御産巣日~の大元は樹木神で、だからこそ扶桑の高木と烏という観念だ生まれたことになる。太陽神と習合していておかしくない。「古事記」のストーリーからすれば、天照大御神に全権を賦与したことになる。 一方、~産巣日~は蛇神の可能性が高い。その流れは、出雲の大蛇につながることになる。一般には、蛇信仰は水神と繋がるが、物語的には雷雨を呼び寄せるという意味が多いようだから、基本的には天雲呼び寄せ能力を有する訳で、瑞雲と太陽のシンボル的な神ではなかろうか。関係する様々な神が習合していそう。 神々の習合を始めたのは、仏教渡来からという訳ではないのである。大八洲国の当初からの風習ということになろう。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |