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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.2] ■■■
[121] 伊波礼の地は失墜したのか
伊波礼/いわれ[史書の用字は磐余]は奈良盆地桜井に存在した地名。

平安京でも、有名だったようだが、今や跡形も確実そうな伝承もほとんど無く、信頼性に乏しい推定地が設定されているだけ。
  池は勝間田{"逝け"は且つ又(薬師寺の西ノ京大池)]磐余[言われ]の池…
   [「枕草子」#35段]
・・・註をつけたのは、景勝地として人気という訳ではなく、「万葉集」収録の大津皇子被死歌を示唆していることが明らかだからだ。
ただ、その心情の根底には、初代天皇の由緒の地でとしての、情感が籠っていそう。・・・
神倭伊波礼毘古命[初]神武天皇の場合、神倭は敬称で、毘古は男称であるから、地名が名称ということになる。ところが、御所は畝火之白檮原宮だし、御陵は畝火山之北方白檮尾上。出身地や養育地でもない。
「古事記」では、長期に渡る遠征を別にすれば、天皇一代一宮で記載される。天皇名が公開されることはないから、普通は宮名がIDそのものだから当然であろう。実際には、婚姻や政治的事情でを転々としたり、大がかりの行幸もあるから、事実上、宮は複数設定されていても、それはあくまでも仮御所か行宮ということになろう。
これを考えると、初代天皇の名称の由来は、この地を早々と制圧したことにちなむと考えるしかあるまい。

実際、この地には宮が置かれており、本来なら記憶されてしかるべき場所。しかるに、それぞれの比定地は諸説あり曖昧なまま。"伊波禮"の地を祈念してきたようには思えない。残っている地名も極めてマイナーであり、それが古代からの伝承と言えるかはっきりしない。(池之内@桜井・池尻@橿原にしても、肝心要の名称は伝わっていない。文字は異なるが、石寸山口神社@桜井(十市)谷(御祭神:大山祇神)が地名を伝えてはいる。)
どうも、早くから、忘れ去られていったようである。・・・
  [17]伊波禮之若櫻宮(伊邪本和氣命履中天皇)
  [22]伊波禮之甕栗宮 & 忍海高木角刺宮(白髮大倭根子命清寧天皇)
  [26]伊波禮之玉穂宮(袁本杼命継体天皇)
  [30]他田宮(敏達天皇)…一説@他田坐天照御魂神社@桜井太田
  [31]池邊宮(用明天皇)
  [32]倉橋柴垣宮(崇峻天皇)
┼┼┼┼┼┼↓初瀬川
┼┼┼┼┼┼│三輪駅
┼┼┼└┐┼┼┼┼ ←三輪山
┼┼┼┼└┐┼┼┼┼┼┼┼┼↓白川
┼┼┼┼ΛΛΛΛΛΛΛ ←長谷列木宮◆25
┼┼久大桜││┼┼┼┼┼┼┼ ←長谷朝倉宮◆21
┼┼山福└┐井│└┐∴┌─────── ←師木島大宮◆29
─┐駅駅└──────┬┴ ←他田宮◆30
───○───○─────○───────○─
──○────○┘┼┼┌┘大和朝倉駅│┼┼長谷寺駅
┼┼┼┼└─┐┌┘┼┼┼┼┼┼
──────────┘ ←R165
└┐┼┼┼ ←阿部文殊院
┼┼└┐┼┼ ←春日神社=池邊宮◆31
┼┼┼└┐┼┼┼
┼┼┼┼└┐┼┼
┼┼┼┼┼┼ ←伊波禮若櫻宮◆17 伊波禮玉穂宮◆26
┼┼┼┼┼↑米川 ↑寺川
┼┼┼┼┼ ←御厨子神社=伊波禮甕栗宮◆22
┼┼┼┼┼┼ ←香久山
┼┼┼┼┼┼┼└┬──■ ←倉橋池
┼┼┼┼┼┼┼┼ ←金福寺=倉橋柴垣宮◆32

上記の概念図でわかるように、桜井辺りは、奈良盆地の要衝の地である。・・・
初瀬川は東方から盆地に流入し、桜井東で北流する。上流沿いの陸路は長谷を通って、山を越えれば伊勢に通じる。三輪山麓を北行すれば古代の宮地・御陵を通り石上神宮に到着する。もちろん、海(難波)から大和川〜初瀬川を遡って行けは、桜井の東辺り(海石榴市)に到着することになる。桜井から真っすぐに西へ進めば八木〜当麻(大坂と竹内の分岐)で、峠を越えればすぐに瀬戸海沿岸地帯。
そして、なんといっても重要なのは、山田寺経由飛鳥地区へと進む南へと繋がる道。(さらに西に行けば軽・橿原に。)飛鳥時代の都は桜井辺りが入り口であり、ここに副宮的な施設が存在していない筈は無かろう。しかるに、湊や船溜まり的跡形も無いに等しい。定期的に発生する水害に、土木技術力では無理となり、放棄してしまい、地形は一変していると考えるのが自然かも知れぬ。上流から運ばれた土砂の堆積が尋常では考えられぬほど多ければそれが最善策だからだ。
そんな地だとすると、初代はここを軍事拠点に設定して、盆地内勢力を纏めたので、この地名で呼ばれたとも考えられる。

藤原京が整備されると、南に下ればこの地であるが、かつて都だったとはいえ、もともとは初代天皇の古戦場たから、魂が眠る地とのイメージもあったようにも思えてくる。さらに池の水鳥が魂を運ぶとの観念が加わっていそうだし。・・・

[「万葉集」巻三#282]春日蔵首老歌一首
つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ
  【註】つのさはふ=いわ(石見、石村、磐余)の枕詞
  <藤原京で勤務を終え夜になり、泊瀬の愛人の家へ向かうが、まだまだ先は遠い。>

[「万葉集」巻三#423]同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首@右一首或云柿本朝臣人麻呂作
つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ
通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には あやめぐさ 花橘を 玉に貫き [一云 貫き交へ] かづらにせむと 九月の しぐれの時は 黄葉を 折りかざさむと 延ふ葛の いや遠長く [一云 葛の根の いや遠長に] 万代に 絶えじと思ひて [一云 大船の 思ひたのみて] 通ひけむ 君をば明日ゆ [一云 君を明日ゆは] 外にかも見む
  【註】天武天皇-忍壁親王-山前王(石田王の兄)
  <磐余から毎朝朝廷に出仕していた石田王も、今やこの世にいない。>


[「万葉集」巻十三#3324]挽歌
かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに・・・
泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に ・・・
磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の ・・・
 <継承前に皇子逝去。藤原京で仕える官人の挽歌。>
  磐余は埋葬地のように思える。

[「万葉集」巻十三#3325]反歌
つのさはふ 磐余の山に 白栲に かかれる雲は 大君にかも

[「万葉集」巻三#416]大津皇子被死之時磐余池<陂>流涕御作歌一首@藤原宮朱鳥元年冬十月
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 <大津皇子が刑死の前に詠んだ辞世の歌。>

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