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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.4] ■■■
[123] 「古事」として読むべし
主張がクドイが、ご容赦のほど。・・・
「古事記」は、"遺跡"の神話集成書としてではなく、"Live"の叙事詩として読むべし。

言うまでもないが、歴史書の立ち位置とは180°方向が異なる。そこから歴史観や社会観は得られるが、史書として読んでしまえば、それは不可能になるので注意が必要。

しかしながら、世の中は、「記紀」として解説してある書だらけ。それは、我々の頭にはすでにそのような発想が埋め込まれていることを意味する。この点に無神経であってはならないと思う。
これを忘れると、「古事記」を読む価値が霧消してしまいかねない。
そんなことは百も承知でも、実際には、口で言うほど容易なことではない。

小生は、本居宣長の著作を読んだことはないが、「古事記」命的な国学者のイメージだけは強く持っている。それなら、「紀」の影響から無縁かといえば逆の可能性さえあると見ている。
「古事記傳」の最初の方の巻だけ目を通しただけだが、そこには、何故に史書には、別天神の記載が無いのか、どうして神名が異なるのかについての説得力ある説明が決定的に不足しているからだ。

「紀」から離れることがいかに難しいか、神世七代の3代目、初の対偶神、<"ひぢ/ひち">の意味を考えた部分を見れば明らかだ。
宇比地邇神うひぢに
須比智邇神すひちに
  宇比地⇒泥土
    宇≒埿@「紀」うき
    比地ひぢ≒土@「紀」
  に↑/↓≒煮/根@「紀」接尾語(↑親愛男性形 ↓親愛女性形)
  須比智⇒泥土
    須≒沙@「紀」
  ---他の解釈
  宇比地⇒初土
    宇比≒初うい
    地≒土
  ≒土

「古事記」は漢字当て字には方針ありということで見ている割りには、どう見ても「紀」が泥と砂の地は生まれたという表記を用いており。これ以外に考えられないのでそれでよかろうと言う論旨に映るからだ。上声下声で男女の読みを変えており、地≠智ではないかと思うが無視しているのも、強引な感じがする。

素人から見れば、この対偶神はわからないとなろう。クラゲなす水の世界で、そこに土地が生まれるとのストーリー自体は「創世記」でお馴染みではあるが、そんなことは「古事記」には一言も書いていないからだ。土地は、神世七代の7代目で造られると書いてあるが、その前にすでに土地があるということか。それなら、この神は倭とは無縁であろう。
大陸を造った神だとすれば、それは「創世記」の神だろうと推定するのが論理では。

「記紀」解釈を始めると必ずこういうことになるのである。
「紀」は公定の史書なのだから、そうなって当たり前。

史書とは、あくまでも成立時点の状況と、過去の事績を繋げることに意味があるからだ。それは、ママ文化を引き継いで来て現在に至るという態が多いが、そうでなくともよい。革命的転換がある時点で発生し、今に至る素晴らしい文化が腐った文化を駆逐したと記載してもよい。
どうあろうと、現在の政体から見た過去の流れを描くことになる。
一方、「古事記」は、それとは異なり、過去の事をできる限りママ記載しようとの試み。それは、伝承を集めるだけではできかねる。そこには、改竄もありし、訳のわからぬ情報も入り込んでいるし、矛盾する話があたありもするからだ。但し、勅命は、正統な皇統譜を纏めるように、ということであるからその範囲を逸脱することはない。

こんなことをわざわざ書かねばならないのは、素人が考えても、これは余りに酷いという注に出会ったから。内容自体が間違っている訳ではないと言うより、"Live"の叙事詩なので、ある意味正当な見方である。
こうした類の注を無神経に読むのは止めた方がよいと思う。
 「古事記」
  天照大御神之命以。豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者。
 「日本書紀」
  因勅皇孫曰。葦原千五百秋之瑞穗
  一書曰:天神謂伊弉諾尊、伊弉𠕋尊曰:
   「有豐葦原千五百秋
瑞穗之地,宜汝徃循之。」
日本は稲魂信仰の国であり、その実りを寿ぐことが信仰の基底にあるというようなトーンで注が記載されている。その意味で、瑞穗と書くのは当然だと思う。「古事記」成立時迄に、そうした観念が社会的に確立していたと見ていたのも確かだろう。
従って、史書としては、この記述は最良の選択と言えよう。
しかし、「古事記」は成立時点と過去を繋げることに意義を見出しているどころか、逆である。葦牙に命の息吹を感じ、粟や黍の地が力があった頃の観念を扱っているのであり、ここは湿田での穀物の実りである筈となろう。それこそが、太安万侶の歴史観。

これに気付けば、上記の泥地問題は、実は、小さなことではないことがわかる。📖神世七代は意味深長

太安万侶はそう考えていなかった可能性もあるからだ。
話の流れから言えば、ここは国土が天の矛で造られる前段だから、土地ではなく、濃い泥水になったと考えるのが筋では。砂混じりの海水はヒト誕生の素とするのは南方海人の観念でもありそうだし。(葦原の地の産土上での鰐出産シーンを重視している。)

「創世記」を知っていればおわかりの通り、神がこのように土地をお造りになれと言挙げされるからであり、唯一神とされているが文章上はこの神は複数形だから、本質的には同じこと。もしも両者の観念が類似と見なせるなら、根が同じで、最極東の島嶼に迄、口頭で伝来したことになろう。そうだとすれば、古事記の神世7代が世界最古譚だろう。
(宇宙としての原始の水世界が生まれ、それが天と地に分かたれ、"初々しい"泥地ができ、乾燥して土地と化し、そこに動植物が生まれ、最終的にヒトが造られる。寿ぎ、安息日を加えて7日間のストーリー。しかも、神はそれぞれの結果に大いに満足。)
ただ、全般的に見れば「創世記」の世界は「古事記」とは全く異なっている。そのポイントは神が動植物を言挙げで生んだり、自らヒトを創造することにあるからだ。その信仰の核はあきらかに選民思想。

それにあたる部分は「古事記」には記載されていない。
全体のトーンからして、神とヒトとの間に親和性を感じさせるし、動物とヒトの間に一線を画すことも無いし、ヒト=青草とのイメージにしみじみさせられる感覚は、「創世記」には微塵も無かろう。

ただ、黄泉の国脱出譚でのヒト=青草記載があるのだから、記載は欠くものの、国造りや神生みの最中に、生命体も創ったと考えるのが自然だろう。

そんな風に考えると、「神世7代」の扱いは以下のように分類できるかも。(神の伝承名は音。漢字借音表記を解釈して、個々の神の性情を想定する方法論に正当性がある訳ではない。先ずは、神世7代の位置付けありき。)
はたして、「古事記」はどれにあたるのだろうか?
どれにも該当しない気もしてくるが。・・・
《第7代(伊耶那岐神・伊耶那美神)を最終的到達点と見なす。》
○国生みのハイライトたる最後の第7代の前段階として
 第1〜6代が順次状況を整えていく。…「日本書紀」
○地上のヒト社会を段階的に創っていく。…「創世記」
○国生み・神生みの第7代男女対偶神のお姿形成に向け
 順次身体が出来上がっていく。…文芸比喩
《他:対偶神は順次段階を踏んでいる訳ではない。》
○上首尾に国生みできず次世代に交代しただけ。
○八洲國外の神になった可能性もある。
(ちなみに、「古事記傳」では、2・4・6代は国の初めで、3・5代が神の初めの有様としている。名前の通りとか、詳細を示しているのではなく、おおよそと考えよ、としている。交互である理由も述べられている。尚、論拠なく、神は"それぞれ"に満足された、としている。)

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