→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.16] ■■■
[135] 系図記載形式を考案
「古事記」より僅かな後に成立した 「日本書紀」は全30巻、系図1巻とされる。
  卷第_一 神代上
  卷第_二 神代下
  卷第_三 神武天皇/神日本磐余彦天皇
   :
  卷第十九 欽明天皇/天國排開廣庭天皇
  卷第二十 敏達天皇/渟中倉太珠敷天皇
  卷第廿一 用明天皇 崇峻天皇
  卷第廿二 推古天皇/豐御食炊屋姬天皇
   :
  卷第三十 持統天皇/高天原廣野姬天皇
  系圖一卷

   養老四年(720年)五月 癸酉  先是 一品舍人親王奉勅
   修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷
 [「續日本紀」卷八元正天皇]
ところが、公的史書というのに、系図だけが現存しない。皇統譜は各巻で記載されている婚姻から読み取って新たに作成するしかない訳だ。普通に考えれば、他の巻の一部が欠損するとか、行方不明になることはあっても、系譜の正統性を示す最重要な書だけが紛失するということは、隠滅が図られたとみなされてもおかしくなかろう。「旧唐書」のように失敗作だったが、「新唐書」のように、新たに公的に作成する訳にもいかなかったということか。

現存する系譜書の類はかなり後世の書であり、そうそう勝手に手がつけられなかったようだ。
  〇源義直:「類聚日本紀 帝王系圖[自神武天皇至光仁天皇] 」
  〇洞院公定[編]:「尊卑分脈」第一冊 帝王系図1400年頃
  〇洞院満季[撰]:「本朝皇胤紹運録」1426年@後小松上皇命


その点では、正統系譜の文書化の命を受けて作られた「古事記」が残ったのは、太安万侶の読みが優れていたということに他なるまい。

「古事記」は初代から33代迄が中〜下巻で明示的に段に分かれており、初代は即位に至る迄の事績があるため例外だが、それ以外は段頭に同様な形式で天皇系譜が記載されているのが普通。筆写時に挿入したり削除したりできないようにする意図からかは判然とはしないものの、各婚姻毎の御子の数と、総合計の注記が書かれていることが特徴である。わざわざ書くほどの要も無さそうな箇所にも記載しているため、読む方としてはえらく邪魔に感じさせる部分だが、それこそが意図そのものだろう。そこで、どういう意味か考えようと多少は努力しては見るものの、残念ながらわからない。

系譜を樹状表記したのでは、血族拡散とならざるを得ず、皇脈がどうなっているのかわかるように書くにはこれしかあるまいということでの、系譜形式なのだろうが。
あくまでも、そこらが骨格ではあるが、他の勢力がこの系譜とどう繋がっているかも、時に描かれていることも一大特徴である。皇統に繋がっているものの、決してそのなかから天皇が選ばれることはない系統と位置付けられているということになろう。
例外はあるものの、皇位継承者は天皇の御子ということで、それ以外は血族であってもあくまでも傍流でしかない。そのため、崩御時に統治能力年齢に達している皇子が多ければ、どうしても継承争い熾烈化してしまうし、若年の皇子しかいないとなると空位が続くことになり、これ又厄介な騒動が生じてしまう。
明らかに、問題を抱える仕組みだが、先代から魂を受け継ぐ儀式なくしては正式に継承されたとみなされないから、ルールを変更することは難しいのであろう。

ただ、皇統を明示的にしたいなら、何代目に当たるのかを記載しそうなものだが、それは避けている。初代だけ、はっきりと記載しているだけで、33の天皇の列伝的記載に留めている。序の書き方から見ると、「古事記」成立時に、そこらには微妙な認定問題が存在していたのかも知れない。

ということで、太安万侶方式の系譜記載がわかるように、以下のように整理してみた。・・・
神倭伊波礼毘古命/神武天皇
 <座日向時>
  生子・・・・[2]柱
 <行幸>
  一宿御寢坐
   阿礼坐之御子・・・・・[3]柱⇒②
 幷[_]柱
神沼河耳命/綏靖天皇
  生御子・・・・[1]柱⇒③
 幷[_]柱
師木津日子玉手見命/安寧天皇
  生御子・・・・[3]柱⇒④
 幷[3]柱
 之中_者治天下。
大倭日子友命/懿徳天皇
  生御子・・・・[2]柱⇒⑤
 幷[_]柱
 故_者治天下也。
御真津日子訶恵志泥命/孝昭天皇
  生御子・・・・[2]柱⇒⑥
 幷[_]柱
 故_者治天下也。
大倭帯日子国押人命/孝安天皇
  生御子・・・・[2]柱⇒⑦
 幷[_]柱
 故_者治天下也。
大倭根子日子賦斗邇命/孝霊天皇
  生御子・・・・[1]柱⇒⑧
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[4]柱
  生御子・・・・[2]柱
 幷[8]柱=男王5+女王3
 故_者治天下也。
大倭根子日子国玖琉命/孝元天皇
  生御子・・・・[3]柱⇒⑨
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[1]柱
 幷[5]柱
 故_者治天下也。
若倭根子日子大毘毘命/開化天皇
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[2]柱⇒⑩
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[1]柱
 幷[5]柱
 故_者治天下也。
御真木入日子印恵命/崇神天皇
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[4]柱
  生御子・・・・[6]柱⇒⑪
 幷[12]柱=男王7+女王5
 故_者治天下也。
伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[5]柱⇒⑫
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[2]柱
 幷[16]柱=男王13+女王3
 故_者治天下也。
大帶日子淤斯呂和気天皇/景行天皇
  生御子・・・・[5]柱
  生御子・・・・[4]柱⇒⑬
  之子・・・・・・・・・[2]柱
  之子・・・・・・・・・[6]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[1]柱
 凡 錄21王 不入記59王   三王負太子之名
 故_者治天下也。
若帶日子天皇/成務天皇
  生御子・・・・[1]柱
 幷[_]柱
 [継承皇子無]
帯中津日子天皇/仲哀天皇
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[2]柱⇒⑮
 幷[_]柱
 故_者治天下也。
品陀和気命/応神天皇
  生御子・・・・[5]柱
  生御子・・・・[3]柱⇒⑯
  生御子・・・・[5(←4)]柱
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[5]柱
  生御子・・・・[1]柱
 幷[26]王=男王11+女王15
 此中_者治天下也。
大雀命/仁徳天皇
  生御子・・・・[4]柱⇒⑰⑱⑲
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[2]柱
 幷[6]王=男王5+女王1
 故_者治天下也。
 次_者治天下也。
 次_者治天下也。
伊邪本和氣命/履中天皇
  生御子・・・・[3]柱
 幷[_]柱
 [継承皇子無]
水歯別命/反正天皇
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[2]柱
 幷[4]王
 [継承皇子無]
男淺津間若子宿禰命/允恭天皇
  生御子・・・・[9]柱⇒⑳㉑
 凡[9]柱=男王5+女王4
 之中_者治天下也。
 次_者治天下也。
穴穂御子/安康天皇
 
 [継承皇子無]
大長谷若健命/雄略天皇
  ・・・・・・←無子
  生御子・・・・[2]柱⇒㉒
 幷[_]柱
 故_太子之御名代定_部
白髪大倭根子命/清寧天皇
 無皇后 無御子
 [継承皇子無]
袁祁王之石巣別命/顕宗天皇
  ・・・・・・←無子
 [継承皇子無]
意祁命/仁賢天皇
  生御子・・・・[6]柱⇒㉕
  生御子・・・・[3]柱
 幷[_]柱
 此之中_者治天下也
小長谷若雀命/武烈天皇
 無太子
 [継承皇子無]
哀本杼命/継体天皇
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[2]柱⇒㉗㉘
  生御子・・・・[1]柱⇒㉙
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[4]柱
  生御子・・・・[4]柱
  生御子・・・・[3]柱
 凡[19]柱=男王7+女王12
 之中_者治天下也。
 次_者治天下也。
 次_者治天下也。
 次_者拜伊勢~宮也。
広国押建金目命/安閑天皇
 無御子
 [継承皇子無]
建小広国押楯命/宣化天皇
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[2]柱
 幷[5]王=男王3+女王2
 [継承皇子無]
天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇
 (冒頭に以下が記載されていない。)
  生御子・・・・[3]柱⇒㉚
  生御子・・・・[1]柱
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[13]柱⇒㉛㉝
  生御子・・・・[5]柱⇒㉜
 幷[25]王
 之中_者治天下也。
 次_者治天下也。
 次_者治天下也。
 次_者治天下也。
  幷[4]王治天下也。
敏達天皇
  生御子・・・・[8]柱
  生御子・・・・[2]柱
  生御子・・・・[3]柱
  生御子・・・・[4]柱
 幷[17]王=男王5+女王4
 [継承皇子無]
用明天皇
 
 [継承皇子無]
崇峻天皇
 
 [継承皇子無]
推古天皇
 
 [継承皇子無]

太安万侶形式であると、何が目立つかといえば、皇位継承上の不都合発生だろう。
1つは、14代、23代、26代が皇子では無い点が明瞭にされている点。14代は実質天皇の皇太子の御子ということのようだ。残りの2件に関しては、皇統断絶の危機ということで、いかに臣下がその問題を克服したかが細かく記載されている。
もう1つは、29代の御子 30〜33代が、御子に皇位継承できなかったこと。そのため、34代は皇子ではないことが系譜的に示されている。33代の在位が長かったことが原因かも知れないが、継承の経緯についてはなにも語られずに"完"。

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME