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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.27] ■■■
[146] 筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原は何処か
伊邪那伎大神の禊の地について、素人の立場で考えてみることにした。・・・
 是以伊邪那伎大神詔
  吾者 到於伊那志許米志許米岐
  穢國而在祁理 故吾者爲御身之禊
 而 到坐
 竺紫 日向 之 橘小門 之 阿波岐原
 而 禊祓也


黄泉の国との境、出雲平坂から淡路島近辺に戻ったようにも受け取れるが、そうなると、小門であれば速水門(明石海峡)が妥当な場所と思われるが、阿波と言うのだからそこでは無く鳴門海峡かナと考えたりする箇所である。
一方、阿波の基幹港湾は小松島と阿南橘(那賀川河口:銅鐸出土地)だから、後者が該当していそうな気もする。しかし、いずれの地も、"竺紫 日向"と関係しているようには思えない。伝承らしき話や社もなさそうだ。

一方、地名でドンピシャで合致しており、文字通り日向の地で祀られている社がある。しかしながら、初見名は日向国子湯郡都濃神だそうで、一貫性を欠いており後世付託の可能性を感じさせる。檍遺跡という地名があるので、この場所を比定地としたようにも映る。
   江田神社[創建不詳]@宮崎阿波岐原産母

しかし、これ以上に説得力ある場所が無いのも事実。

このため、なかなかに難しい問題を孕むことになる。
これだけ詳しい地名表記は他に無いから、どうしても伝えたい特徴ある地だったと考えるしかないからだ。
その上、どの神社の祝詞でも、冒頭で、必ず、以下の様に読み上げられる点からして、重要な地名であることは間違いないし。
 かけまくも畏き伊邪那岐の大神
 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
 禊ぎ祓へたまひし時に・・・


そうなれば、その地が必ずある筈ということになり、何百年にも渡って、色々な人が違った目線で様々な情報から探したことだろう。それでも、結局のところ、それらしい場所は誰も思いつかなかった。
そうなれば諦めるしかない訳で、"ここの地名に関しては深い意味は無く、特定の地名を表すものではない。"とするのもありだろう。

しかし、この箇所は禊の意義を伝えるために書かれていると考えれば、どうということもないのでは。

つまり、禊自体は阿波の地だが、そこは日向の雰囲気濃厚な場所だったというだけの話。その雰囲気が肝心要だったため、環境が一変してしまい、その地も潮流で陸が海になってしまえば、たとえ周辺であると言っても意味が薄いとして誰からも顧みられなくなったと考えるのはどうか。
つまり、出雲や瀬戸海とは全く異なる植生の南島型"原"、おそらく浜的な地で行われたということ。南洋の浜の原風景を指すと見るのである。

そう思うのは、禊全般からして、明らかに海人としての信仰であることを物語る記載になっているからだ。ここでは、その海人の出自を示していることになる。

こうした禊という儀式は南方特有と考えるからでもある。スンダ地域から西太平洋島嶼、及びモンスーンに洗われる大陸沿岸の湊での習慣と考えるべきでは。
従って、日本海沿岸や朝鮮半島で行われているとしたら、それは南方海人の支配域になった歴史ありと言うことになる。要するに、寒冷地域にはおよそそぐわない、湿潤温暖地域でしかありえない儀式と見る訳だ。

この辺りの感覚は個人差が大きいかも。

小生は、日本の沓脱習慣は、もともと裸足を旨とする海人であることもあるが、高床式神殿周辺域には手足洗浄・口漱ぎ後に入るという古代からのルールを反映しており、「古事記」の禊に至っては、生モノを常食とする海人なら当然の習慣でもある穢れ落とし、つまり"身削"が儀式化されたと考えているのである。泥や屑が始終身に付着する環境ならではの行為に映るからでもある。

換言すれば、ステップ帯のツングース系に、沓脱習慣や貴重な水を使った穢れ払いの慣習が生まれるとは思えず、寒冷地域にもかかわらずその手の生活様式が残っているのは、海人族に支配された時代がとてつもなく長かったことを意味していると考えるだけのこと。床暖房も無き地での沓脱などおよそ考えられまい。
南方海人にしてみれば、居住域としての魅力は乏しい寒冷地ではあるものの、大方の地では伐採尽くされた大木が残っている地ということで進出せざるを得なくなったのかも。

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