→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.28] ■■■
[147] 創始が形而上神とは先進哲学そのもの
φ「古事記」本文の一大特徴は、冒頭の宇宙観が明瞭に示されること。哲学的記述から開始される点。

圧巻は、初源空間あるいは原始の海かはわからぬものの、そこから、最初の神が自然に顕れて来るシーン。我々が習って来た宗教の基本的スタンスは、神はソコ存在する点で、全く異なる上、造物/生命創始等一切の活動をした気配を全く感じさせない神であることも特筆モノ。しかも、姿が見えないとされているから、人格神とも言い難いところがある。
極めて形而上学的な描き方がされていると言うことであり、人々の信仰対象の神というより、宇宙哲学書的な内容を示すための神という風情である。

浅学の故、なんとも言い難いところだが、このような宇宙初源シーンは世界でも珍しいのではあるまいか。

そうした"珍しさ"は、実は、これに留まらないのが、日本列島の文化ではあるまいか。

間違ってはこまるが、日本特殊論を展開するつもりはサラサラない。
どの国もある意味、文化的にまことに特殊だからこそ、"幻想の共同体"たる国家が成り立つのだから。
(そのためには、文化の基底を一色に染めるしかなく、その方向に合わない文化は消されていくことになるのが普通。それでも、昔の残渣が存在したりするが、その場合は無意識的に そうとは気付かない振りをすることになる。そうでもしない限り、国として纏まる必然性を失ないかねないからだ。)

ところが、倭の姿勢は、この当たり前の対処方法を避けて来たように見える。

そうなったのは、人類発祥の地から見れば、海路でも陸路でも、東の果ての場所にある、島嶼ならではの知恵ということかも。
そう思うのは、巨大帝国が勃興してくると、保護色的対応でその文化圏所属の態を見せていそうだから。ところが、よく見ると、その実態は換骨奪胎。
道教も、儒教も、仏教も、キリスト教もすべてそのように扱われている。どの地でも、地域に合わせるのは当たり前だが、組織が共存するレベルを遥かに通り越し、個人のなかで重層化し混在することが可能という珍しい信仰形態が確立してしまったのである。
当然ながら、土着とされる信仰も、よくよく見れば多種多様な由来の集合体とならざるを得ない。そこには、渡来宗教が含まれていておかしくない訳で、由緒といっても、必ずしもそれが原点ではないかも知れないのだ。
しかも、一色化を図っているにもかかわらず、どうみても以前の色にベタ上塗りすることを避けている。つまり、できる限り元の色を残渣的にママで残そうとしているのは明らか。このため、全体としては一色というより雑炊的文化になりがち。
そういう意味では世界のなかでも異色と言ってよかろう。

おそらく、物理的には箱庭的なバラバラ地勢でありながら、困難が付き纏う航海を経て来た渡来"異人"を歓迎する体質が出来上がっていたのだろう。女系の国だったので、入り婿到来ということにもなりがちで、異文化取り入れに前向きだったこともありそうだし。
大陸側は、官僚帝国なので全てに標準規定を設定し、そこからの逸脱勢力抹消に注力することになるが、その一方で珍奇な動きには関心を寄せ辺境に至るまで探索を進め、有用そうに思えば強引に取り込むことになる。その成果が出れば、それを帝国の独自文化とすることになる仕組みだ。倭は、それとは正反対の風土ができあがっていたことになろう。
そうなれば、帝国内権力闘争で駆逐された支配層や、内乱に敗北し逃亡を余儀なくされた勢力にとっては、ラストリゾートとみなされていてもおかしくない。

そのような地はまさに例外中の例外。
この場合、雑炊的文化といっても、なんでもゴチャ混ぜという訳ではなく、渡来の垂涎モノの一流から構成されている点を忘れるべきでない。帝国では、それは過去のものとされ、消え去ってしまうことになるが、倭国では受け入れて価値ありとなると滅多なことでは消滅させようとの力が働くことがないから、伝承され」続けたりする。
このため長い年月が経ては日本ほどユニークな文化が揃っている国はなかろうとの評価が生まれることになる。
文化論的に言えば、周辺域の吹き溜まり現象そのもの。中央と辺境でよく見られるが、国家規模で発生する例は日本だけだろう。

もっとも、逆に、それを徹底的に嫌っている人も少なくなかったので、今では、One of themの"特殊性"を誇る普通の国家の道を歩むことになってしまったが。

ともあれ、この構成は実によくできている。時間軸に成程感があり、単なる文化の重層で出来上がったとはとても思えない。

原始の海("無")  📖神世概念は儒学的歴史観とは水と油
❶初元(造化独神)
❷高天原時代(別天神)⇔知覚不能な世界(隠神)
❸神世(地形成神)
 ❹国生み・神生み時代(男女神)
   …高天原+葦原中国+黄泉国+海原
 ❺貴神時代@高天原(天照大御神・須佐之男命)
  <人世@八洲国>
  ❻出雲神々 +観念上の異界(根国+常世国)
  ❼天孫降臨
  ❽日向神々 +海外国(海神宮)
   ❾天皇代

なんといっても圧巻は、⓿+❶。この部分は、後から挿入したものとの見方もあるらしいが、それは当たっているとも言え、そんなことはあり得ないとも言える。公的史書は❸の国之常立神から始まるのも無理からぬところ。
自らの出自を考えた場合、全てを創造する神が最初に存在するというのが、無理なき理屈であり、その場合は何らかの原初生命体があてられる筈だ。そこから、生死が繰り返されて現代に至るという観念が成立することになるが、バラエティある世界が展開するのだから、原初の神は死してバラバラとなり、その一つ一つが新たな生命体となったという世界観になる筈である。
その段階と、現代では当たり前の、男女の交接こそが次世代の生命を生み出す根源という観念の間には深い溝がある。人類はそれを乗り越えたのである。観念形成の時間軸では、「古事記」は正しいが、両者が繋がっている訳ではない。📖と❶は捨てられてしまうしかないからだ。しかし時間軸上ではつながるから、記載するなら人格神でない単なる生命を象徴する神として登場させるしかなかろう。
つまり、形而上の神として生まれ変わったのであり、それは男女神による国生みや神生みの話が完成した後ということになるが、その神の出自自体は男女神より遥か昔ということ。

だからといって、それは太安万侶が形而上の神を生み出したということではなく、倭人としては捨て去ることを是とせず、男女神の前の神々の時代があったとの記憶を留めていたと考えるのが自然だ。
❶造化三神の神名こそが、その記憶の言語的具象化ともいえるのではなかろうか。すこぶる哲学的であるが。
神のご意志などわかろう筈もないが、その神の世界で神を寿ぎながら生きていた時代を、とらえかえした表現と考えれば、現代にも通用しそうな哲学を提示していると言えなくもない。

ここでもう一つ重要なことは、現代では誰でもが知る生殖観念だが、自明とは言い難い点を忘れるべきでなかろう。受精や受粉が認められたのは人類史ではほとんど現代と言ってもよいのではないか。
そのような観念が無き時代は、創造する力があるのは女性しかいなかったのであり、男とはその力を引き出すためのオマケだ。婚姻とはもともとそういうものと考えられていたに違いない。野生動物を見ていれば、雌の気力を立ち上げ、その創造力を全開に導くことができる雄が伴侶として選ばれるとの見方をしておかしくないのだから。
女神である天照大御神が最高位に着いたのだから、倭は、その時点ではそのような観念が主流の 社会だったことを意味しよう。

これが、男系の社会に変化していくことになるが、それはおそらく受精の概念が生まれたから。おそらく、牧畜を生業にすると、豊穣の根源は男の方にあることがわかったからだろう。
農耕漁撈主体であると、そのような変化が始まるのは、大幅に遅れた筈。❺の時代が見せるように、女神から男神への権力移管は簡単ではなかったのであろう。

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME