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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.2] ■■■
[244] 蘇我稲目の3比賣に注目せよと
[29]天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇は敬称が命でなく天皇となっている上に、いかにも強力に統治を推進したかのような名称で、特異的な印象を与える。

しかも、28代に続けて系譜のみ記載、かつ崩御年・御陵が無記載である。📖師木島大宮

無記載が大きな問題とは思わないが、気になるのは、29代は、33代に至る系譜の要石というか"祖"的存在という点。28代と違って、御陵記録無しなどおよそ考えにくい。
そうなると本貫地を明確にすることが憚られたことになる。皇位継承についてもなんらかのトラブルが発生した可能性が高かろう。換言すれば、国史の記載はそこらを勘案して編纂されていることになろう。
と言っても、系譜しか情報が示されていないので、どういうことか考えるのもえらく難しい。だが、そこにはそれなりの太安万侶流の示唆がある筈だ。
・・・そう思って眺めると、ここは蘇我氏問題ということになる。(稲目の息女 岐多斯比賣と小兄比賣の系譜が記載されているようなもの。)

「古事記」では宗賀/蘇我氏の記述ほんの僅か。しかし、29〜33代天皇は婚姻関係で繋がっており、女系的には実質的な支配者だったようにも映る。
非「古事記」から、「古事記」対象年代以降から太安万侶時代まで追ってみると、蘇我氏の影響は女系ベースでずっと続いていたようだ。
それに、蘇我氏は、朝廷の対外政策決定とその運営全般をを牛耳っていたようでもあり、仏教や南シナ海辺りの状況について記載を見送ったのは、そこらも作用しているかも。

大きな流れとしては、葛城や平群の制圧がかなりの重圧だった時代を克服し、物部と蘇我の時代になったということになりそうだが、勢力間の角逐はかえって激しくなっでいたのだろう。「古事記」は、そこらを書くための書でもないから、29〜33代天皇に事績無しとなるのは、ある意味当然かも知れない。
中華帝国模倣の律令国家体制化を進めれば、儒教の宗族意識も持ち込まれることになり、皇位継承争いは熾烈化必至だからだ。暗殺・権謀術数は当たり前のこと。ただ、儒教下なので、単純な覇権荒遅いと見るべきではなく、勢力統合・組み換えを伴う政治路線転換の動きでもある。(逆に言えば、儒教国になってしまうと、政策転換は血生臭い権力闘争無しでは行えないということ。)
特に、倭国内では、情報格差がとてつもなく大きかった筈で、おそらく中華帝国と倭国の実力差をわかっていたのが蘇我宗家だけだったろう。
(413〜502年には大陸との外交関係があったが、その後、600年[推古8年]遣隋使迄、非交流に徹していた訳で。島国的閉鎖性王朝が続き、インターナショナルな動きに無知な支配層との印象を与えるのも拙いからか、国史はこの辺りは全面的隠蔽方針を貫いている。)

蘇我氏の系譜は以下のようになっているようだ。・・・
[8]孝元天皇/大倭根子日子国玖琉命
└○比古布都押之信命─○n.a.(屋主忍男武雄心命)
┌──────────┘
①武内宿禰
├┬┬┬┬┬┬┬┐…男七女二
波多氏(波多八代宿禰)
巨勢氏(許勢小柄宿禰)
┼┼│○平群氏(平群都久宿禰)
┼┼紀氏(木角宿禰)
┼┼┼┼久米能摩伊刀比賣)
┼┼┼┼┼怒能伊呂比賣
┼┼┼┼┼┼葛城氏(葛城長江曾都毘古)
┌─┘┼┼┼┼┼若子宿禰
(蘇我氏)蘇賀石河宿禰
石川─③満智─④韓子─⑤高麗/馬背
┌───────────┘
⑥稲目
├┬┬┬┐
堅塩媛岐多斯比賣
│⑦馬子│
││△小姉君小兄比賣
│││△石寸名意富藝多志比賣
│││││    ↑「古事記」は岐多斯比賣の姨
││││○(伝)境部摩理勢
││││
│││└┬[31]用明天皇橘之豐日命
│││多米王
│││
│││[29]欽明天皇/天国押波流岐広庭天皇
││└┬┘
││├┬┬┬┬┬┬┐
││馬木王
││┼┼葛城王
││┼┼┼間人穴太部王
││┼┼┼┼三枝部穴太部王/須賣伊呂杼
││┼┼┼┼┼[32]崇峻天皇/長谷部若雀命
││
││┼┼[29]欽明天皇/天国押波流岐広庭天皇
└──┬┘
├┬┬┬┬┬┬┐
[31]用明天皇橘之豐日命
┼┼妹石坰;
┼┼┼足取王
┼┼┼┼[33}推古天皇豐御氣炊屋比賣命}
┼┼┼┼┼亦麻呂古王、大宅王、伊美賀古王
┼┼┼┼┼┼山代王
┼┼┼┼┼┼┼妹大伴王、櫻井之玄王
┼┼┼┼┼┼┼┼麻奴王、橘本之若子王、泥杼王
┌┘
├┬┬┬┐
善徳││
⑧蝦夷│
│○倉麻呂/雄當
││△刀自古郎女…聖徳太子妃
┌┘││△法提郎女
││└┬●[34]舒明天皇
││○古人大兄皇子
││
│└┬○聖徳太子

└────┐
├┐┼┼┼┼┼
⑨入鹿┼┼┼┼←宗家滅亡@乙巳の変645年
物部大臣↓中大兄皇子協力者
┼┼┼┼┼┼┼├┬┬┬┐
┼┼┼┼┼┼┼○倉山田石川麻呂
┼┼┼┼┼┼┼│○連子
┼┼┼┼┼┼┼││○日向
┼┼┼┼┼┼┼││赤兄
┌──────┘│┼┼果安
┼┼┼┼┼┼┼├┐
┼┼┼┼┼┼┼安麻呂
┼┼┼┼┼┼┼┼娼子/媼子…藤原不比等妻
├┬┬┐
興志、法師、赤猪
遠智娘…[38]天智天皇夫人
│△姪娘
││△乳娘
││└┬●[36]孝徳天皇
││
│└┬●[38]天智天皇/中大兄皇子
├┐
御名部皇女
┼┼[43]元明天皇/阿陪皇女[721年崩御]
┼┼└┬○草壁皇子
┼┼┼├┬┐  (723年太安万侶没)
┼┼┼[44]元正天皇/氷高皇女[在位:715-724年]
┼┼┼┼[42]文武天皇/珂瑠皇子
┼┼┼┼│△吉備内親王…長屋王妃
┼┼┼┼
┼┼┼┼└┬△藤原宮子
┼┼┼┼┼[45]聖武天皇/首皇子

└┬─[38]天智天皇/中大兄皇子
┼┼├┬┐
┼┼建皇子(夭折)
┼┼┼大田皇女
┼┼┼┼[41]持統天皇/鸕野讃良皇女

蘇我氏の本貫地は地名から判断すると、橿原曽我の畝傍山麓で、そこから蘇我川域上流に勢力を伸ばし、飛鳥地区に入ったらしい。
宗族支配を徹底すべく、地域毎に分家を置いたようである。
 堅塩媛系…河内磯長谷
 小姉君系…三輪山南方
 倉山田石川臣家…山田道
 上宮王家(聖徳太子)…斑鳩@竜田道
 境部臣…飛鳥西方
 小墾田臣…小治田宮/豊浦

結局、河内磯長谷が王陵の谷となった。
「古事記」では、[29]欽明天皇天皇陵は不詳だが、下記の巨大古墳と見てよかろう。・・・
《大和国高市郡》@橿原曽我宗我坐宗我都比古神社
  《飛鳥》
(方墳)石舞台古墳@島庄(飛鳥桃原)蘇我馬子
方墳(階段ピラミッド)都塚古墳/金鳥塚蘇我稲目
《大和国葛上郡/御所》
円墳水泥塚穴古墳@御所古瀬双墓(蘇我蝦夷+蘇我入鹿)
《−》
前方後円墳見瀬丸山古墳 [29]欽明天皇天皇 移転/追葬(堅塩媛)&改葬
《−》
方墳(八角)赤坂天王山古墳 倉梯岡陵[32]崇峻天皇
《王陵の谷》@太子町
前方後円墳太子西山古墳 [30]敏達天皇陵 追葬(石姫)
方墳春日向山古墳 [31]用明天皇
方墳高松古墳 [33]推古天皇陵 合葬(皇子竹田皇子)
双方墳二子塚古墳
円墳三骨一廟(聖徳太子+穴穂部間人皇后+膳部郎女)@卍叡福寺
科長神社小野妹子
前方後円墳上ノ山古墳 [36]孝徳天皇
墳丘仏陀寺古墳@山田蘇我倉山田石川麻呂

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